71
帰り道は、行きよりずっと静かで。
風は変わらずやわらかく、陽射しも穏やかなままだったのに、少女の胸の中だけが重い。
石段でつまずいた感触はもう足には残っていないのに、気持ちのほうにははっきりと残っていた。
キルアは何も言わなかった。
無理に明るく振る舞うことも、気にするなと慰めることもない。
ただ、行きと同じように半歩ぶんだけ近い距離を保って歩いている。
その沈黙がありがたいはずなのに、今の少女には少し痛かった。
何も言われないぶん、自分の中で勝手に考えてしまう。
情けない。
たった数段の石段でつまずいて、支えられて、それで動揺している。
そんな自分を、彼はどう見ているのだろう。
部屋へ戻ると、少女は椅子に腰を下ろした。
外の空気に触れたせいか、身体は少し疲れている。
けれど、それ以上に、胸の奥がざわついて落ち着かなかった。
キルアは窓を少し開けて風を通し、グラスをテーブルの上に置いた。
それから「少し休め」とだけ言って、部屋を出ようとする。
その背中を見た瞬間、少女の口が先に動いた。
「……待って」
キルアが足を止める。
振り返った顔は、驚いたというより、続きを待つ顔だった。
少女は膝の上で指を絡めた。
何を聞きたいのかは分かっている。
けれど、それを口にするのがひどく怖い。
聞いてしまったら、戻れない気がした。
もし答えが自分の想像通りだったら、きっと傷つく。
でも、聞かずにいるほうが、もっと苦しい。
「前のわたしって……」
そこまで言って、喉が詰まる。
キルアは急かさなかった。
扉のそばに立ったまま、ただ待っている。
少女は一度視線を落とし、それから小さく続けた。
「もっと、ちゃんとしてた?」
言ってしまった瞬間、胸の奥がひやりと冷えた。
あまりにも曖昧で、あまりにも情けない問いだった。
ちゃんとしてた、なんて、何を基準にしているのか自分でも分からない。
でも、それ以外の言い方が見つからなかった。
キルアはすぐには答えなかった。
その沈黙が、少女にはひどく長く感じられる。
やっぱりそうなのだろうか。
前の自分は、もっとまともで、もっと迷惑をかけなくて、もっとひとりで歩けていたのだろうか。
今の自分だけが、こんなにも頼りなくて、空っぽなのだろうか。
少女は指先に力を込めた。
爪が皮膚に食い込む感覚だけが、妙に鮮明だった。
「……どういう意味で」
ようやく返ってきた声は、低く静かだった。
問い返されて、少女は少しだけ息を詰める。
どういう意味。
それを説明しようとすると、余計にみじめになる気がした。
けれど、ここで黙ったら、たぶん何も伝わらない。
「今日も、そうだけど……」
少女は視線を上げられないまま言った。
「ちょっとしたことでつまずいたり、怖くなったり……そういうの、前はもっと、ちゃんとできてたのかなって」
最後のほうは、ほとんど消えそうな声だった。
自分で言っていても、ひどく情けない。
できてた、できてない、そんな単純な話ではないのかもしれない。
けれど今の少女には、自分が“できない側”にいることだけがはっきりしていた。
キルアは扉から離れ、部屋の中へ戻ってきた。
けれど近づきすぎず、テーブルを挟んだ向こう側で足を止める。
「前も、別に何でもできたわけじゃない」
その言葉に、少女はゆっくり顔を上げた。
キルアの表情は変わらない。
慰めようとしている顔ではなかった。
事実をそのまま置くような顔だった。
「怖がることもあったし、無理なもんは無理ってあった」
淡々とした言い方だった。
優しく飾らないぶん、かえって嘘がないように聞こえる。
少女はそれでも、胸の奥の痛みがすぐには消えなかった。
何でもできたわけじゃない。
そう言われても、今日の自分が頼りなかったことは変わらない。
「でも、今よりは……」
思わず零れた言葉に、キルアの目がわずかに細くなる。
「今よりは、って比べるほど、前のこと覚えてねーだろ」
静かな声だった。責めているわけではない。
けれど、その一言はまっすぐだった。
少女は言葉を失う。
その通りだった。
自分は前の自分を知らない。
知らないのに、勝手に“もっとましだったはず”と決めつけている。
けれど、そうでも思わなければ、今の惨めさの置き場がなかった。
「……だって」
少女は唇を噛んだ。
うまく言えない。
比べる相手がいないのに、今の自分だけが足りない気がする。
何かを失って、何かを欠いた状態で、ここにいる気がする。
「今のわたし、何もないみたいで」
その言葉は、思っていたよりずっと素直に零れた。記憶がない。
力もない。
うまく歩けない。
人の気配に怯える。
助けられてばかりいる。
そういうものが全部まとまって、胸の奥で“何もない”という形になっていた。
部屋が静かになる。
風が窓辺の布を揺らし、小さな音を立てた。
キルアはすぐには返事をしなかった。
少女はその沈黙に耐えきれず、視線を落とす。
言わなければよかったかもしれない。
重いことを言ってしまった。
困らせるだけかもしれない。
そう思ったとき、低い声が落ちた。
「何もないなら」
少女ははっとして顔を上げる。
キルアは卓の向こうに立ったまま、こちらを見ていた。
静かな目だった。
けれど、その奥には少しだけ硬いものがある。
「オレの袖、掴まねーだろ」
少女は息を止めた。
昼間のことだった。
石段ではなく、その前、廊下でふらついたとき、咄嗟に彼の袖を掴んだ。
自分でも意識しないまま、身体が勝手にそうした。
「あれ、考えてやったわけじゃないだろ」
少女は何も言えなかった。
確かにそうだった。
考えていないし、頼っていいかどうかを判断したわけでもない。
ただ、身体が先に動いた。
「足音で落ち着くのも、オレが近くにいると少しマシなのも」
キルアはそこで一度言葉を切った。
それから、少しだけ視線を逸らして続ける。
「残ってるもんがあるからだろ」
その言葉は、静かに胸へ落ちた。
残っているもの。
少女はその響きを、心の中でそっとなぞる。
記憶はない。
でも、身体が覚えていることがある。
足音。距離。触れてもいい相手。眠れる場所。
それらは確かに、ここ数日のあいだにも何度もあった。
何もないわけではない。
そう言われても、すぐに全部を信じられるわけではない。
けれど、“何もない”と決めつけていた胸の奥に、ほんの小さなひびが入る。
少女は膝の上の手を見つめた。
指先が、少しだけ震えている。
「……でも」
それでも、言わずにはいられなかった。
「それだけじゃ、足りない気がする」
声は弱かった。
残っているものがある、それは分かる。
けれど、それだけで今の自分を肯定できるほど、少女の中の痛みはまだ浅くなかった。
キルアはその言葉を否定しなかった。
ただ、少しだけ息を吐く。
「足りないって思うのは勝手だけど」
ぶっきらぼうな言い方だった。
けれど、そのぶっきらぼうさの奥に、妙なやわらかさがある。
「最初から全部なくなったみたいに言うな」
少女は目を瞬いた。
叱られた、というほど強くはない。
けれど、その言葉には確かな熱があった。
全部なくなったみたいに言うな。
それはたぶん、彼にとっても譲れないことなのだろう。
少女は胸の奥が少しだけ熱くなるのを感じた。
責められたわけではない。
慰められたわけでもない。
ただ、違うと言われた。
何もないわけじゃない、と。
そのことが、思っていたよりずっと深く刺さる。
痛いのに、少しだけ救われる。
キルアはそれ以上何も言わず、「休めよ」とだけ残して今度こそ部屋を出ていった。
扉が閉まる音がして、静けさが戻る。
少女は椅子に座ったまま、しばらく動けなかった。
何もないわけじゃない。
残っているものがある。
その言葉を、すぐに信じきることはできない。
でも、否定もできなかった。
自分の中には、まだ分からないものがある。
失ったものばかりではなく、残っているものも。
それでもなお、胸の奥の痛みは消えない。
むしろ、少し形を変えて、もっと深いところへ沈んでいく。
何もないわけじゃない。
でも、それでも。
記憶も力もない自分が、誰かの隣にいていい理由には、まだ思えなかった。
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