72



昼間なら流せるような小さな音まで、夜になると胸の奥に引っかかって、少女の神経を細く逆撫でしていく。
ベッドの端に腰かけたまま、少女は膝の上で手を握りしめる。

昼の会話が、まだ胸の奥に残っていた。

――何もないわけじゃない。
――残っているものがある。

キルアはそう言った。

その言葉に嘘はなかったと思う。
慰めるためだけに、あんな言い方をする人じゃないことも分かっている。

分かっているのに、苦しかった。
残っているものがあるとしても、それが何になるのだろうと思ってしまう。

足音に安心すること。
近くにいれば少し落ち着くこと。
袖を掴めること。

そんなものがあったとして、それで今の自分に何ができるのか。

助けられてばかりいる。
守られてばかりいる。
それなのに、その守りに甘えてしまう自分がいる。

少女は顔を伏せた。
扉の向こうには、たぶんキルアがいる。
夜になると、必要ならすぐ声が届く場所にいてくれる。
近すぎず、遠すぎず、少女がいちばん息をしやすい距離に。
そのことに、どれだけ助けられているか分からない。
でも、助けられているからこそ、胸の奥が痛んだ。

どうして、そこまでしてくれるのだろう。
今の自分に。

考えたくないのに、考えてしまう。

もし記憶を失う前の自分が、もっとちゃんと彼の隣に立てる人だったなら。
もっと自然に支え合えて、もっと彼の役に立てる相手だったなら。
今ここにいる自分は、その続きを名乗っていていいのだろうか。

その考えが浮かんだ瞬間、胸の奥で何かがきしんだ。

控えめに、扉が叩かれる。

「起きてる?」

低い声が届く。
いつも通りの、押しつけない声だった。

少女は返事をするまで少し時間がかかった。
喉の奥がつまって、うまく息が通らない。

「……うん」

ようやく返すと、向こうで小さく気配が動く。

「茶、置いとく」

床にカップが置かれる音。
彼がくれる、最近の習慣。
それだけのことなのに、胸がひどく痛んだ。

まただ、と思う。
また自分は、受け取るだけだ。

少女は立ち上がり、扉の前まで歩いた。
扉の向こうに置かれたカップの気配など分からないはずなのに、温かさが伝わってくるようで、どうしようもなく泣きたくなった。

扉を開けるつもりはなかった。
でも、気づけば指先が戸にかかっていた。
ほんの少しだけ開ける。
廊下の薄暗がりの中に、キルアが立っていた。
近すぎない距離。
いつでも下がれる位置。
少女が開けることを想定していたのか、驚いた顔はしない。
その何でもなさが、今夜はだめだった。

少女は扉の隙間から彼を見上げた。
言いたいことがある。
けれど、どこから言えばいいのか分からない。
昼の会話で飲み込んだものが、胸の中でまだ絡まったままだった。

「……どうした」

静かな声。
急かさない、いつもの声だった。
そのやさしさに、かえって喉が熱くなる。

「わたし」

声が震える。
カップを持つ手に力が入った。

「……わたし、たぶん」

そこで一度、言葉が途切れる。
何を言おうとしているのか、自分でもはっきり分かってしまって、怖くなった。

「今のままじゃ、だめなんだと思う」

言った瞬間、胸の奥がひどく冷えた。

誰に言われたわけでもない。
キルアにそう思わせられたわけでもない。
それでも、自分の中ではもう、そうとしか思えなかった。

キルアの表情がわずかに動く。
けれど少女は、もう止まれなかった。

「何も覚えてないし、何もできないわけじゃないって言ってくれたけど……」

「でも、できることなんて少ししかなくて、結局、守られてばっかりで」

喉が熱い。
でも、言葉は止まらない。

「それなのに、近くにいたいって思うの、ずるい気がする。安心したくて、甘えてるだけみたいで……」

自分で言っていて、胸が痛かった。
キルアは何も言わない。
ただ、じっとこちらを見ている。
その沈黙が責めているようには見えない。
見えないのに、勝手に苦しくなる。

「前のわたしなら、違ったのかなって思うの」

声が少し掠れる。

「もっとちゃんと、キルアの隣にいられたのかなって」

「今のわたしみたいに、こんなに何も返せなくて、困らせたりしなかったのかなって」

比べたいわけじゃない。
比べたところで、自分は前の自分を知らない。
そんなことは分かっている。
それでも、今の自分が足りないという感覚だけは消えなかった。

少女は唇を噛んだ。
そして、いちばん飲み込みたかった言葉を、震えるまま零す。

「……もし」

息が詰まる。

「もし、キルアが見てるのが、今のわたしじゃなくて、前のわたしのほうだったとしても……」

そこで言葉が切れた。

断定したいわけじゃない。
責めたいわけでもない。
ただ、そうだったとしても仕方ないと思ってしまうくらい、今の自分に自信がなかった。

「……わたし、責められないよ…」

小さく落ちた声は、ほとんど自分に言い聞かせるみたいだった。

廊下の空気が静まる。
キルアの表情が、わずかに強張る。
少女は続けるしかなかった。
ここで止めたら、たぶん一生言えない気がした。

「だって、今のわたし、何も返せてない」

「守られて、気を遣わせて、それで……」

呼吸が浅くなる。
胸の奥が痛い。
けれど、もう止められなかった。

「前のわたしの代わりにも、なれてないのに」

その一言は、思っていたよりずっと静かに落ちた。
静かなぶんだけ、深く刺さる。

"代わり"

そんな言い方をしたくなかった。
でも、今の少女にはそれ以外の言葉が見つからなかった。

記憶を失う前の自分。
キルアが知っている、自分。
彼の中に確かに残っているはずの、自分。

それに比べて、今ここにいる自分は何なのだろう。
中身の抜けた殻みたいに、守られて、気遣われて、それでも何も返せない。

「……こんなふうなのに」

少女は視線を落とした。
もう彼の顔をまっすぐ見られなかった。

「大事にしてもらう理由、あるのかなって思う」

言ってしまってから、ひどいことを言ったと思った。
キルアを責めたいわけじゃない。
困らせたいわけでもない。
ただ、自分の中にある痛みをうまく別の形にできなかっただけだ。

キルアは黙ったままだった。
すぐに綺麗な言葉は出てこない。
否定も、慰めも、約束も。
何かひとつでも返してくれたら違ったのかもしれない。
でも彼は、苦しそうに黙っていた。

その沈黙を見た瞬間、少女の胸の奥がすうっと冷えた。
困らせた。
やっぱり、こんなこと言うべきじゃなかった。
答えにくいに決まっている。
自分が勝手に苦しくなって、勝手に彼を巻き込んでいるだけだ。

「……ごめん」

今度の謝罪は、はっきりしていた。
彼を責めるようなことを言ってしまったことへの謝罪だった。
それと同時に、こんな自分でいることそのものへの、どうしようもない後ろめたさでもあった。

キルアの喉がわずかに動く。
何か言おうとして、でも言葉にならないみたいに。
その様子が、余計につらい。

少女は組んだ手を抱えるように胸元へ寄せた。

「……少し、一人になりたい」

声は小さかった。
でも、自分でも驚くほどはっきりしていた。

空気が張りつめる。
キルアが息を呑む気配がした。
追いかけたい、引き止めたい、たぶんそういうものが一瞬で立ち上がったのだと分かるくらいに。

けれど少女は、もうそれ以上何も言えなかった。
これ以上ここにいたら、もっと彼を困らせてしまう気がした。
あるいは、彼の沈黙に耐えられなくなる。

「……お願い」

その一言だけを残して、少女は扉を閉めた。

木の板が、二人のあいだに落ちる。
閉まる音が、やけに大きく響いた。

扉の向こうで、気配が止まる。
追いかけて扉を開けてくるかもしれない。
名前を呼ばれるかもしれない。
そう思って、少女は息を止めた。
でも、何も起こらなかった。
足音もない。声もない。
ただ、扉の向こうに立ち尽くす気配だけがある。

その沈黙が、今度はキルアのものとして伝わってくる。
行かせたくない。
でも、追えばだめだと、ぎりぎりで踏みとどまっている。
そんな苦しさが、木の板一枚越しに伝わってくる気がした。

少女は扉にもたれたまま、目を閉じた。
胸の奥はまだ痛い。
言ってしまった言葉も、返ってこなかった沈黙も、全部が刺さったままだった。

それでも今は、ひとりになりたかった。
ひとりで、苦しくなりたかった。

扉の向こうでは、キルアがまだ立っている。
引き止めたい言葉を、喉まで上げたまま。
その気配だけを残して、夜はどこまでも静かだった。






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