73
扉を閉めたあと、少女はしばらくその場から動けなかった。
背中越しに、向こうの気配が分かる。
キルアが、まだいる。
立ち去っていない。
それが、今は苦しい。
でも、少しだけ救いでもあった。
完全に見放されたわけではないのだと、そんなふうに思ってしまう自分が、また嫌だった。
少女は唇を噛み、ゆっくり扉から離れた。
けれど、数歩下がったところで立ち止まる。
このまま同じ部屋にいても、きっとずっと扉の向こうを意識してしまう。
気配を探して、まだいるのか確かめて、声をかけてほしいのか、放っておいてほしいのかも分からないまま、また苦しくなる。
それなら、少し場所を変えたほうがいい。
少なくとも今は、そう思った。
部屋の中を見回す。
灯りの落ちた静かな空間。
ベッド。テーブル。窓。
ここ数日で少しずつ慣れたはずの場所なのに、今夜はどこも落ち着かなかった。
少女は小さく息を吐き、上着を手に取った。
夜気は冷える。
でも、それ以上に、何かに包まれていないと立っていられない気がした。
扉に手をかける。
向こうに彼がいる。
開ければ、顔を合わせることになる。
一瞬だけためらった。
けれど、ここで立ち止まったら、また何も変わらない気がした。
少女はそっと扉を開けた。
廊下の薄暗がりの中に、キルアは本当にいた。
扉のすぐ前ではない。数歩ぶんだけ離れた場所。
けれど、立ち去るつもりもなかったのだと分かる位置だった。
その姿を見た瞬間、胸が痛む。
追いかけたり、名前を呼んだりはしなかった。
でも、離れられなかったのだと分かる。
キルアは少女が出てきたことに目を見開いた。
何か言いかける。
けれど、すぐには言葉にならない。
少女は視線を合わせきれず、少しだけ俯いた。
「……少し、外の空気吸ってくる」
本当は、それだけではない。
少し考えたい。
少し離れたい。
少し、自分の中を静かにしたい。
でも全部を言う余裕はなかった。
キルアの肩がわずかに強張る。
止めたいのだと分かる。
今すぐ名前を呼んで、行くなと言いたいのだと。
その気配が、痛いほど伝わってきた。
けれど彼は、言わなかった。
喉元まで来ているはずの言葉を、ぎりぎりで飲み込んでいるようだった。
少女はその沈黙に、また胸を締めつけられる。
止めてほしいわけではない。
でも、何も感じていないみたいに黙られるのもつらい。
そんな勝手なことを思う自分が、どうしようもなく嫌だった。
「……ごめん」
また謝ってしまう。
キルアの眉がわずかに寄る。
それでも彼は、すぐには何も言わなかった。
言えば、引き止める言葉になってしまうのかもしれない。
長い沈黙のあと、ようやく落ちた声は低く掠れていた。
「……遅くなるなよ」
それだけだった。
行くな、ではない。
戻ってこい、でもない。
ただ、完全に手放したわけでもない声だった。
「すぐ戻るから……」
少女は小さく頷いた。
それ以上、何も言えなかった。
すれ違うようにして廊下を進む。
キルアのすぐ横を通るとき、彼の気配が近かった。
手を伸ばせば触れられる距離。
でも、どちらも動かない。
少女はそのまま歩き出した。
背中に視線を感じる。
振り返ったら、たぶん戻れなくなる気がして、振り返れなかった。
廊下の先で角を曲がる直前、ほんの一瞬だけ足が止まりそうになる。
それでも、少女はそのまま進んだ。
◇
後ろでは、キルアがまだ扉の前に立ち尽くしていた。
――行かせたくない。
その言葉だけが、声にならないまま喉に引っかかっている。
追えば届く距離なのに、追わない。
追えないのではなく、追わないことを選んだのだ。
その苦しさを残したまま、夜の廊下は静かに伸びていた。
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