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朝の空気は、白かった。
まだ陽は高くない。
窓の外には薄い靄みたいな光が滲んでいて、家の中も静かだった。

いつもなら、朝はもっと輪郭がある。
湯の沸く音や、食器の触れ合う小さな音や、誰かが起きている気配が、少しずつ一日の形を作っていく。
けれどその朝、キルアが最初に感じたのは、静けさではなく違和感だった。

目が覚めた瞬間から、何かが足りない。
理由は分からない。
でも身体のほうが先に気づいていた。

いつもなら意識の端にあるはずの気配が、ない。

キルアはベッドから起き上がる。

一晩ほとんど眠れていない。
眠れなかったというより、眠る気になれなかった。昨夜、閉まった扉の前で立ち尽くしたまま、何度も手を伸ばしかけて、結局何もできなかった。

行かせたくなかった。
追いかけたかった。
名前を呼んで、戻れと言いたかった。

でも、それをしたらだめだと分かっていた。
少しひとりにしてほしい。
そう言った相手を、その場の不安だけで追い詰めるわけにはいかなかった。
だから踏みとどまった。
少し時間を置けば戻ると思っていたし、少なくとも、落ち着いたらまた話せるはずだと思っていた。

踏みとどまったはずなのに、胸の奥にはまだ、飲み込んだ言葉が棘みたいに残っている。

キルアは廊下へ出た。
足音がやけに大きく響く。
少女の部屋の前で止まり、扉を見る。

閉まっている。
中にいるかもしれない。
そう思って、すぐには手をかけられなかった。

昨夜、自分はここで立ち尽くしていた。
扉の向こうにいる相手を追いたくて、でも追えなかった、その記憶がまだ生々しい。

キルアは短く息を吐き、扉を叩いた。
返事はない。
もう一度。
やはり返事はない。

胸の奥が、ひゅっと冷える。

「……入るぞ」

低く言って扉を開ける。

部屋の中は静かだった。
ベッドは整えられていて、昨夜のまま崩れた気配がない。
窓辺にも、テーブルにも、人の気配は残っていない。

――いない。

その事実が、思ったよりずっと鋭くキルアの中へ入ってきた。
昨夜、少し離れたいのだと思った。
ひとりで落ち着きたいだけだと。

でも、これは違う。

視線が部屋の中を走る。
無意味だと分かっていても、どこかにまだいるみたいに探してしまう。
けれど、当然そんなはずはない。

テーブルの上に、小さく折られた紙が置かれていた。
キルアの足が止まる。
嫌な予感が、背骨を冷たく這い上がる。
近づいて紙を取る。
見慣れないほど整った字ではない。
少し迷いながら書いたような、細い文字だった。

【少し考えたいです。
ここにいていいのか、まだ分からないから。
ごめんなさい。】

たったそれだけだった。
短い。
短いのに、十分すぎた。

キルアの指先に力が入る。
紙がわずかに鳴る。

ここにいていいのか分からない。

その一文が、昨夜の言葉と重なる。

――前の自分の代わりにもなれない。
――今のわたし、何も返せてない。
――大事にしてもらう理由、あるのかなって思う。

胸の奥で、何かが一気に跳ね上がる。

昨夜、自分は“少しひとりにして”を尊重したつもりだった。
でも、あいつが抱えていたのは、そんな軽いものじゃなかったのかもしれない。
落ち着くための距離じゃない。
自分がここにいていいのか分からなくなって、離れるしかないと思うほどの、深い自己否定だったのかもしれない。
そこまで追い詰められていたことに、気づけなかった。

いや、気づける材料はあった。
昨夜の言葉は、十分すぎるほど危うかった。
なのに、自分は“今は追わないほうがいい”に寄りかかって、ひとりで抱えさせた。

――探しに行く。

その考えが、ほとんど反射みたいに浮かぶ。

今すぐ外へ出て、足取りを追って、見つけて、無事を確かめる。
ひとりで“ここにいていいのか”なんて答えを出させたくない。
そんなふうに思わせたまま、放っておけるわけがない。

その奥で、別の衝動もまだ燻っている。
見つけたら、もう二度とひとりで行かせたくない。
腕を掴んででも連れ戻したい。
そんな自分勝手な衝動が、まだ消えずに残っている。

キルアは奥歯を噛みしめた。

だめだ。
それは違う。

違うと分かっていても、身体はもう動きかけている。
紙を握ったまま、キルアは踵を返した。

廊下へ出る。
家の中は静かだ。
静かすぎて、余計に焦りが募る。

どこへ行った。
ひとりで大丈夫なのか。
昨夜のまま、ろくに眠れていないんじゃないか。
知らない場所で、知らない人に声をかけられたら。具合が悪くなったら。
怖くなったら。

考えたくもない想像が、次々に浮かぶ。

キルアは玄関で足を止めた。
止まったのは一瞬だけで、次の瞬間には、もう外へ出ていた。
朝の空気が冷たい。
肺に入るたび、頭が少しだけ冴える。

でも、胸の内側はまるで冴えない。
ざわつきがひどい。
落ち着けと言い聞かせても、まるで意味がなかった。

家の周りを見渡すが、足跡なんてもちろん残っていない。
それでも、行きそうな場所を頭の中で弾く。

人の多いところは避けるはずだ。
静かな場所。
少し考えたいと言うなら、ひとりになれる場所。
でも、完全に知らないところへ遠くまで行くとも思えない。

キルアは歩き出した。
早足になる。
その速さに、自分でも気づいている。
走り出した。
今すぐ見つけたい。
見つけて、無事を確かめたい。
それから、ちゃんと話さなきゃいけない。
昨夜みたいに、黙ったまま終わらせるのでもなく、ひとりで答えを出させるのでもなくて。

それでも胸の奥では、まだ“行くな”が暴れている。

キルアは眉を寄せたまま、通りを曲がる。
朝の街はまだ人が少ない。
店も開ききっていない。
その静けさが、かえって探しやすいはずなのに、今は何も安心材料にならなかった。

昨夜、追わなかった。
あれでよかったのか、まだ分からない。

でも今朝、置き手紙を残していなくなった現実を前にすると、少なくとも“このままひとりにしておいていい状態じゃなかった”ことだけは、嫌でも分かる。

行かせたくなかった。

本当は、あの場で言いたかった。

行くな。
ここにいろ。

でも、それを言わなかったのは、相手を尊重したかったからだ。

少なくとも、そうでありたかった。

なのに結果として、自分はあいつをひとりで行かせた。
“ここにいていいのか分からない”まま、朝を迎えさせた。
その事実が、胸を強く刺す。

少女がいない。

その事実だけで、家の中の空気まで別物みたいに感じる。

帰ってくるかもしれない。
少し考えたら戻るかもしれない。
頭ではそう考えようとする。

でも、胸の奥はそんな理屈を聞かない。

もし戻らなかったら。
もし、このまま“ここにいていいのか分からない”を答えにしてしまったら。

その想像に、キルアの足がさらに速くなる。

探しに行く。
見つける。
それだけは、もう決まっていた。
連れ戻すためじゃない。
そう言い聞かせる。

探しに行って、見つけて、無事を確かめて。
それから――

それから、どうする?

言い聞かせる奥で、二度とひとりにしないという衝動が、まだ消えずに燻っていた。

朝の薄い光の中、キルアは張りつめたまま歩き続ける。
手の中には、短い置き手紙。
紙の端が、握りしめた指に食い込んでいた。






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