76
風がひとつ強く吹く。
木々の葉がざわめいて、ベンチの足元に落ちていた細い枝が転がる。
その音だけがやけに大きく聞こえた。
キルアは立ったまま、少女を見ていた。
少女はベンチに座ったまま、膝の上で手を握りしめている。
その手を見た瞬間、キルアの中で再び衝動が跳ねた。
掴んでしまえばいい。
そのまま立たせて、帰るぞと言えばいい。
ここにいろ。
離れるな。
勝手にいなくなるな。
そう言ってしまえば、どれだけ楽か分からない。
喉の奥で、“行くな”が消えずにへばりついている。
「おまえ――」
声が落ちる。
その先に続くはずだった言葉は、あまりにもはっきりしていた。
行くな。
離れるな。
戻れ。
キルアの指先が、わずかに動いた。
無意識に、少女の手首へ伸びかける。
少女がその気配に気づいて、ほんの少し肩を強張らせる。
その反応が、キルアを引き戻した。
(――違うだろ)
キルアは伸びかけた手を止めた。
拳を握り、ゆっくり下ろす。
喉まで来ていた言葉も、無理やり飲み込む。
苦い。
飲み込んだものが、そのまま胸の奥を焼くみたいだった。
少女はそんなキルアを見上げた。
不安そうで、でもどこか諦めたような目。
もし今ここで何か強い言葉をぶつけられたら、それをそのまま受け入れてしまいそうな、危うい目だった。
――選べ、選び直せ。
キルアは一度だけ視線を落とし、短く息を吐いた。
うまく言える気はしない。
綺麗な言葉なんて、最初から得意じゃない。
でも、今ここで誤魔化したらだめだと思った。
「……お前が」
声が少し掠れる。
それでも、今度は止めなかった。
「今ここにいたくないなら、無理にいろとは言わねー」
言い切った瞬間、自分の胸の奥がひどく痛んだ。
本当は言いたくない。
いてほしい。
帰ってきてほしい。
離れてほしくない。
でも、それをそのままぶつけるのは違う。
相手が選ぶ前に、答えを奪うことになる。
少女の目が大きく揺れる。
たぶん、そんな言葉が返ってくるとは思っていなかったのだろう。
キルアは続ける。
喉の奥はまだ熱い。
それでも、ひとつずつ言葉を選ぶ。
「でも」
その一言に、自分でも少しだけ力が入るのが分かった。
「帰りたくなったら、帰ってこい」
少女が息を呑む。
キルアは視線を逸らさなかった。
逸らしたら、今の言葉まで揺らぎそうだったからだ。
痛いほど喉に残る言葉を飲み込んで続ける。
「思い出してなくてもいい」
昨夜、言えなかったこと。
言えなくて、沈黙で傷つけたこと。
その埋め合わせになるとは思わない。
でも、今はちゃんと口にしたかった。
「力がなくてもいい」
少女の唇が、かすかに震える。
キルアは拳を握ったまま、低く続ける。
「ここは、"前のお前"のための場所じゃない」
その言葉は、自分自身にも向けるみたいだった。
前の記憶を持った彼女。
失う前の彼女。
それを大事に思っていた自分がいたことは、もちろん消えない。
でも、今ここで向き合っているのは、その思い出の影じゃない。
今、目の前にいる彼女だ。
「"今のお前"が、帰ってきていい場所だ」
言い終えたあと、公園はしんと静かだった。
風の音も、遠くの鳥の声も、急に遠のいたみたいに感じる。
少女は何も言わない。
ただ、キルアを見ている。
その目の奥で、何かが揺れていた。
信じたいのに、すぐには信じきれないもの。
うれしさと、戸惑いと、痛みが混ざったみたいな揺れ方だった。
キルアはそれ以上、言葉を重ねなかった。
重ねれば重ねるほど、押しつけになる気がした。
本当はまだ言いたいことがある。
探した。
心配した。
いなくなるな。
次はちゃんと言え。
勝手にひとりで抱え込むな。
でも、それらは今じゃない。
今必要なのは、戻るかどうかを相手に委ねることだった。
少女は膝の上の手を、さらに強く握りしめる。
その指先が白くなる。
泣きそうなのかもしれない。
でも、ここではまだ泣かない、そんな風に耐えているように見えた。
やがて、少女が小さく口を開く。
「……でも」
掠れた声。
その一言だけで、まだ迷いが消えていないのが分かる。
「わたし、何も……」
何もない。
何も返せない。
何者でもない。
たぶん、そう続けたかったのだろう。
キルアはその先を待った。
急かさない。
埋めない。
彼女が自分で言葉にするのを待つ。
けれど少女は、最後まで言い切れなかった。
喉の奥で言葉がほどけて、視線だけが落ちる。
キルアはその沈黙を見つめたあと、低く言う。
「別に、何か持ってこいって言ってるわけじゃねーし」
少女の肩がわずかに揺れる。
「帰るのに、資格とかいらねーだろ」
ぶっきらぼうな言い方だった。
慰めるには不器用すぎる。
でも、それが今のキルアに言える精一杯だった。
少女は目を伏せたまま、何も返さない。
それでも、その沈黙はさっきまでとは少し違っていた。
拒絶ではなく、言葉が胸の中に落ちるのを待っているみたいな静けさだった。
キルアはそこで、ようやく少しだけ肩の力を抜いた。
まだ自分の元に戻ってきたわけじゃない。
まだ、自分の側にいると決めたわけでもない。
それでも、自分は選び直せたのだと思った。
“行くな”ではなく、“帰ってこい”でもなく。
“帰りたくなったら帰ってこい”と、そう言えた。
それは手放すことではない。
見捨てることでもない。
ただ、相手の足で戻ってこられるように、扉を閉めないでおくことだった。
少女はしばらく黙っていたが、やがて本当に小さな声で言った。
「……覚えてなくても、いいの?」
その問いは、誰に向けたものというより、自分自身に確かめるみたいだった。
キルアはすぐに答える。
「いい」
迷わなかった。
今度は、昨夜みたいに沈黙しなかった。
「なくてもいい」
少女の目が、また揺れる。
その揺れの奥に、今度はほんの少しだけ、ほどける気配が混じる。
キルアはそれを見て、胸の奥が痛むのと同時に、少しだけ救われるのを感じた。
昨夜は言えなかった。
でも今は、言えた。
それだけで全部が解決するわけじゃない。
彼女がすぐ戻るとも限らない。
それでも、今ここで必要な言葉は、たぶん間違えなかった。
風がまた吹く。
木々が揺れ、朝の光が葉の隙間で細かく砕ける。
キルアはもう手を伸ばさなかった。
掴まない。引き寄せない。
ただ、そこに立っている。
それが今の自分にできる、いちばんまっとうな愛し方だと、苦しいまま、選んでいた。
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