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キルアの言葉を聞いたあとも、すぐに立ち上がることはできなかった。
ベンチに座ったまま、膝の上で手を握りしめ、何かを堪えるみたいに俯いている。
――帰りたくなったら帰ってこい。
――今のお前が帰ってきていい場所だ。
その言葉が届いていないわけではない。
むしろ、届いたからこそ、すぐには動けないように見えた。
キルアも、それ以上は何も言わなかった。
戻れとも、待ってるとも、今すぐ来いとも言わない。
言いたいことは、たぶんまだいくらでもある。
でも、ここで重ねれば、せっかく選び直した言葉まで、また“縛る”ほうへ傾いてしまう気がした。
だから黙る。
黙って、相手が自分で息を整えるのを待つ。
風が、二人のあいだを抜けていく。
朝の光は少しずつ高くなって、公園の影の形を変えていた。
静かな場所だった。
静かなのに、胸の内側だけがずっと騒がしい。
少女はやがて、ほんの少しだけ顔を上げた。
目元は赤くなっていない。
まだ泣いてはいないのだろう。
でも、泣く寸前の人間が必死に息を整えているときの、あの危うい静けさがあった。
「……すぐには」
掠れた声が落ちる。
キルアは何も言わず、その先を待った。
「すぐには、戻れない」
その言葉は拒絶ではなかった。
ただ、今の彼女にとっての精一杯の正直さだった。
キルアは一瞬だけ目を伏せる。
胸の奥が痛む。
戻ってきてほしい。
今すぐ一緒に帰りたい。
そう思う気持ちは、どうしても消えない。
それでも、ここでそれを押しつけるわけにはいかない。
「……分かった」
返した声は、自分でも驚くほど低く静かだった。
無理に平静を装っているのが、自分でも分かる。
少女の肩から、ほんの少しだけ力が抜ける。
許された、というより、急かされなかったことに安堵したような抜け方だった。
キルアはその変化を見て、胸の奥で何かがきしむのを感じる。
本当は急かしたい。
本当は今すぐ連れて帰りたい。
でも、それをしないと決めたのは自分だ。
だったら、最後までやるしかない。
「……じゃあ」
キルアはそこで一度言葉を切った。
何を残すべきか、ほんの一瞬だけ迷う。
待ってる。
気をつけろ。
ちゃんと食え。
暗くなる前に戻れ。
どれも言いたい。
でも、どれも少し違うな、と思い直す。
結局、口から出たのはひどく短い言葉だった。
「帰りたくなったら、帰ってこいよ」
さっき言ったことと、ほとんど同じ。
でも、繰り返すことでしか届かないものもある気がした。
少女は小さく目を見開く。
それから、ゆっくり頷いた。
その頷きが、約束なのか、ただ今は否定しなかっただけなのか、キルアには分からない。
分からないまま、それ以上確かめることもしなかった。
しばらく沈黙が落ちる。
もう言うことはない。
本当はあるけれど、言わない。
キルアはベンチから少し離れた位置に立ったまま、少女を見た。
朝の光の中で、彼女はひどく小さく見える。
守りたいと思う。
その気持ちは、たぶんこれからも消えない。
でも、守ることな閉じ込めることではない。
その違いを、今は手放さずにいたかった。
「……じゃあ、オレ戻るわ」
そう言うと、少女の指先がわずかに動いた。
引き止めるわけではない。
でも、完全に平気なわけでもない。
その小さな揺れが見えて、キルアは一瞬だけ足を止めそうになる。
不安を取り除いてあげたい、そんな思いが顔を覗かせる。
それでも止まらない。
ここで振り返ったら、また未練が言葉になるから。
少女は俯いたまま、小さく「……うん」と返した。
それだけだった。
キルアは踵を返す。
背中に視線を感じる。
あるいは、感じたいだけかもしれないが、どちらでもよかった。
今はただ、追わないことを選び続けるしかない。
公園の出口へ向かって歩く。
足取りは軽くない。
むしろ、一歩ごとに胸の奥が重くなる。
本当にこれでよかったのか?
戻らなかったらどうする?
またひとりで抱え込んだら。
夜になっても、帰ってこなかったら。
不安はいくらでも湧く。
でも、そのたびに、さっき自分で言った言葉が返ってくる。
――今ここにいたくないなら、無理にいろとは言わない。
――帰りたくなったら、帰ってこい。
あれは彼女に向けた言葉であると同時に、自分への約束でもあった。
不安で壊してはいけない線を、ちゃんと守るという約束。
公園を出る直前、キルアは一度だけ立ち止まりそうになる。
振り返れば、まだベンチに座る少女の姿が見えるはずだ。
でも、振り返らなかった。
◇
少女はベンチに残された。
でも、ひとりきりではなかった。
キルアの言葉が、そこに残っている。
――思い出してなくてもいい。
――力がなくてもいい。
――今のお前が帰ってきていい場所だ。
その言葉は、すぐに答えを出させるものではない。
むしろ、ひとりになったあとでじわじわ効いてくる種類のものだった。
キルアの姿が見えなくなってから、ようやく少女は顔を上げた。
公園は静かで、風だけが木々を揺らしている。
さっきまでそこにいた気配が消えて、急に世界が広くなったみたいだった。
膝の上の手が震えている。
今まで泣かなかった。
泣いたら、何かが決壊してしまう気がして、ずっと堪えていた。
でも、もう堪えきれなかった。
少女は唇を噛み、俯く。
肩が小さく震える。
目の奥が熱い。
次の瞬間、ぽたりと雫が膝の上に落ちた。
それを合図みたいに、涙が止まらなくなる。
声は出さない。
出せない。
ただ、息を殺すみたいにして、静かに泣く。
どうして泣いているのか、自分でも全部は分からない。
苦しかった。
怖かった。
昨夜の沈黙が痛かった。
今朝いなくなった自分も、見つけに来た彼も、全部が痛かった。
でも、それだけじゃない。
帰ってきていい場所だと、言われた。
前の自分ではなく、今の自分に向かって。
そのことが、遅れて胸の奥に届いてしまった。
うれしいのに、すぐには信じきれない。
信じたいのに、自分にはその資格がない気がする。
その矛盾が、涙になって溢れていた。
少女はひとりで泣いた。
朝の静かな公園で、誰にも見られないまま。
キルアの残した言葉だけを、胸に抱えたまま。
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