78
泣きやんだ後も、しばらくベンチから動けなかった。
涙は止まっている。
けれど、泣いたあとの身体はひどく重い。
胸の奥だけが妙に空っぽで、そこに風が通り抜けていくみたいだった。
朝の光はもう少し高くなっていて、公園の影は短くなりはじめている。
遠くで子どもの笑い声がした気がしたが、ここまでは届かない。
静かな場所だった。
膝の上に置いた手を見つめる。
指先は少し冷えている。
泣いたせいで頭もぼんやりしていた。
――帰りたくなったら、帰ってこい。
――今のお前が帰ってきていい場所だ。
キルアの言葉が、何度も胸の中で繰り返される。
忘れようとしても消えない。
むしろ、ひとりになった今のほうが、さっきよりずっと深く響いていた。
少女はゆっくり息を吐いた。
考えたかった。
だから出てきた。
ひとりになれば、少しは頭の中が整理できると思っていた。
でも実際には、整理されるどころか、いろんな感情が前よりはっきり見えるようになっただけだった。
記憶がない。
力もない。
前の自分がどんなふうに笑って、どんなふうに彼の隣にいたのかも分からない。
分からないまま、今の自分だけがここにいる。
それはやっぱり、怖かった。
もし前の自分がもっとちゃんとしていたなら。
もっと役に立って、もっと自然に彼のそばにいられる人だったなら。
今の自分は、その場所に入り込んでいるだけなのではないか。
そんな考えは、まだ完全には消えていない。
少女はベンチの背にもたれ、空を見上げた。
薄い雲が流れている。
晴れているとも曇っているとも言い切れない、曖昧な空だった。
自分も同じだと思う。
何者なのか、まだ曖昧だ。
前の自分でもない。
でも、まったくの空っぽでもないはずなのに、その“はず”をうまく掴めない。
記憶がないから、自分の輪郭が分からない。
力がないから、自分の価値も分からない。
何を持っていた人だったのかも、何を失ったのかも、断片しかない。
だからときどき、本当に中身のない器みたいに思えてしまう。
けれど――と、少女は目を伏せる。
その問いは、キルアの言葉を聞いたあとから、胸のどこかに残っていたもの。
数日間彼と過ごす中で、場面ごとに、芽生えた問い。
どうして、怖いときに思い浮かぶのが彼の声なのだろう?
どうして、夜になると、扉の向こうの足音を探してしまうのだろう?
どうして、あの家の灯りや、湯気の立つお茶、静かな廊下の気配を思い出してしまうのだろう?
少女は目を閉じた。
思い浮かぶのは、派手な何かではなかった。
特別な約束でも、劇的な場面でもない。
低い声。
廊下を歩く足音。
扉の前で止まる気配。
部屋の灯りが漏れる、夜の静けさ。
ぶっきらぼうなのに、必要なときにはちゃんと届く言葉。
それらは、もしかしたら前の自分の名残なのかもしれない。
記憶を失う前から身体に残っていた安心の形。
理屈より先に反応してしまう、古い習慣みたいなものかもしれない。
ここまでは、今までも考えたことがある。
でも、それだけではない気もした。
今の自分も、たしかにそれに救われている。
今の自分が、その声に安心して、足音にほっとして、灯りを見て息をつける。
それは“前の自分の残り”だけでは説明しきれない、今ここにある感情だった。
少女はゆっくりと目を開けた。
空っぽではない。
少なくとも、完全な空っぽではない。
記憶はない。
力もない。
それでも、怖いときに帰りたいと思う場所がある。
その場所を思い浮かべると、胸の奥が少しだけ痛くて、少しだけあたたかくなる。
その気持ちは、今の自分のものだ。
そう思った瞬間、胸の奥で何かが小さく揺れた。
まだ自信にはならない。
これだけで全部が解決するわけでもない。
前の自分への劣等感も、何も持っていないような不安も、まだちゃんと残っている。
でも、ひとつだけ確かなことがあった。
――帰りたい。
その言葉が、少女の中に静かに落ちる。
前の自分だからではなく。
記憶が戻ったからでもなく。
ただ"今の自分"が、あの場所へ帰りたいと思っている。
――残ってるもんがあるからだろ。
かつてキルアに言われた言葉を思い出す。
あの時は、身体が無意識に反応していた。
そこに今の自分の思いが乗っていないことに、ひどく違和感があった。
でも、今は、“思っている”。
それはとても小さな気づきだった。
けれど、今の少女にとっては、何より大きかった。
帰りたいと思うなら、そこにはもう何かがある。
本当に空っぽの器なら、帰りたい場所なんて持てない。
少なくとも、自分の中には、ひとつの感情が根を張っている。
少女は膝の上の手を、そっと握り直した。
指先の冷たさはまだ残っている。
でも、さっきまでの冷え方とは少し違った。
すぐに立ち上がれるわけではない。
扉の前まで行って、ちゃんと帰れるかもまだ分からない。
帰ったとして、何を言えばいいのかも分からない。 前の自分じゃないのに、何も持っていないのに。
そんな思いは、きっと扉の前でまた自分を止める枷になるのだろう。
それでも、帰りたいと思った。
その気持ちだけは、もうごまかせなかった。
風がやわらかく吹く。
木の葉が揺れて、光が細かく地面に散る。
少女はその揺れる影を見つめながら、ゆっくり立ち上がった。
足元はまだ少し頼りない。
でも、行き先は決まっている。
――帰りたい。
その気持ちを胸に抱えたまま、少女は静かな公園をあとにした。
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