79
家の前まで来たとき、少女の足は自然に止まった。
見慣れた扉だった。
朝、自分で離れた場所。
ほんの半日ほどしか経っていないはずなのに、もうずいぶん遠くへ来てしまった気がする。
陽は少し傾きはじめていた。
昼の明るさがやわらぎ、家の輪郭に薄い影が落ちている。
風は朝より穏やかで、通りも静かだった。
その静けさの中で、少女だけが立ち尽くしている。
帰りたいと思った。
それは本当だ。
公園でひとりになって、泣いて、考えて、それでも最後に残ったのはその気持ちだった。
でも、帰りたいと思うことと、実際に扉を開けることは別だった。
少女は扉を見つめたまま、指先をぎゅっと握る。
ここに入れば、キルアがいる。
もしかしたらすぐに出てくるかもしれない。
もしかしたら、まだ帰っていないかもしれない。
どちらにしても、この扉の向こうには“戻ったあとの現実”がある。
それが急に怖くなった。
もし、帰ってきた自分を見て、少しでも困った顔をされたら。
もし、やっぱり気をつかわせてしまったと分かったら。
もし、あの言葉が、ただ自分を追いつめないためのやさしさだっただけなら。
そんな想像が、また胸の奥を冷やしていく。
少女は目を伏せた。
帰りたい。
でも、帰っていいのかはまだ分からない。
いや、本当は分かっているのかもしれない。
“帰ってきていい”と、ちゃんと言われた。
今の自分に向かって。
それでも、自分のほうがまだそれを受け取る準備ができていないだけだ。
「……前のわたしじゃない」
誰に聞かせるでもなく、声が零れる。
記憶のある自分ではない。
キルアが知っているはずの自分ではない。
そのことは、扉の前に立つといっそう重く感じられた。
「何も持ってない」
力もない。
記憶もない。
役に立てるものも、返せるものも、何ひとつない気がする。
それでも帰りたいなんて、あまりにも身勝手ではないか。
受け入れてもらうことばかり望んで、自分は何も差し出せない。
そんな自分がこの扉を叩いていいのだろうか。
少女は唇を噛んだ。
胸の奥がまたざわつく。
せっかくここまで来たのに、足が動かない。
帰りたい。
でも、怖い。
帰りたい。
でも、前の自分じゃない。
帰りたい。
でも、何も持っていない。
同じ言葉が、胸の中で何度もぶつかる。
扉の向こうは静かだった。
人の気配は分からなくて、だからこそ、余計に怖い。
もし今ここで引き返したら、少なくとも傷つかずには済む。
帰ってきた自分を見て、どんな顔をされるか確かめなくていい。
でも、それでも。
少女はゆっくり息を吸った。
胸が痛い。
喉の奥も熱い。
それでも、ここで帰らなかったら、きっとずっと後悔する気がする。
帰りたいと思った気持ちまで、自分で否定することになる。
それだけは、したくなかった。
少女はそっと手を伸ばす。
扉に触れる寸前で、指先が止まる。
木の冷たさが、まだ触れてもいないのに伝わってくる気がした。
怖い。
でも、帰りたい。
その二つを抱えたまま、少女はもう一度だけ深く息を吸う。
それから、震える指で扉を軽く叩いた。
小さな音だった。
聞こえなかったかもしれないと思うほど、控えめなノック。
けれど、その音を立てた瞬間、胸の奥で何かが決まった気がした。
もう完全には引き返せない。
戻るための一歩を、自分で踏み出したのだと分かる。
返事はまだない。
少女は扉の前で立ち尽くしたまま、指先を胸元に引き寄せる。
心臓がうるさい。
今すぐ逃げ出したい気持ちと、このまま待ちたい気持ちがせめぎ合う。
前のわたしじゃない。
何も持っていない。
それでも、帰りたい。
その気持ちだけを、どうにか両手で抱えるみたいにして、少女は扉の前に立ち続ける。
やがて、家の中で小さく足音がした。
その音を聞いた瞬間、少女の喉がきゅっと詰まる。
知っている足音だった。
何度も夜に探した音。
それだけで、泣きそうになる。
でも、まだ泣かない。
まだ、扉は開いていないから。
少女は息を止めるみたいにして、その気配を待った。
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