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扉の向こうで足音が止まる。
その一瞬の静けさがひどく長く感じられ、少女は息を詰めたまま扉を見つめていた。
逃げたい。
でも、ここまで来て目を逸らすこともできない。
やがて、扉が開いた。
現れたのは、キルアだった。
当たり前のはずなのに、その姿を見た瞬間、胸の奥が強く揺れる。
ちゃんとここにいる。
朝、公園で別れたときと同じ人が、今は家の中から自分を見ている――それだけのことなのに、少女の喉はすぐに熱くなった。
キルアも、扉の前に立つ少女を見て、ほんのわずかに目を見開いた。
驚いたというより、張りつめていたものが一瞬だけほどけたような顔だったが、それを大きく表には出さない。
責めるような色はなく、安堵はある。
けれど、それを押しつけることもしない。
ただ、静かにそこに立っている。
その態度が、少女にはかえって苦しかった。
やさしい。
やさしいからこそ、自分が何も持っていないことが余計に際立つ気がした。
少女は唇を開く。
何か言わなければと思うのに、最初の一言がなかなか出てこない。
「……あの」
声が掠れる。
キルアは急かさず、ただ待っている。
その待ち方が、また胸に刺さる。
前みたいに、言葉を奪わない。
答えを急がせない。
ちゃんと、自分でここに立って、自分で言うのを待ってくれている。
少女は指先を握りしめた。
怖い。
でも、言わなければならない気がした。
「わたし」
喉が震える。
それでも、どうにか続ける。
「わたし、何もないのに」
言った瞬間、胸の奥がきしむ。
記憶もない、力もない、前の自分の代わりにもなれない。
その全部をまとめるみたいに出た言葉だった。
「それでも……帰ってきちゃった」
最後のほうは、ほとんど消えそうな声だった。
帰りたいと思ったから来たけれど、それを堂々と言えるほど、自分を信じられてはいない。
キルアは少女を見つめたまま、少しだけ眉を寄せる。
その表情に少女の胸がひやりとする。
やっぱり困らせたのかもしれない、そう思いかけたときだった。
「何もなくねーって」
キルアが言った。
短く、はっきりした、迷いのない声だった。
その言い方に、少女は目を見開く。
キルアは扉に手をかけたまま、続ける。
「今のお前が帰ってきたなら、それでいいから」
静かな声だった。
大げさじゃない。
慰めようと飾った言葉でもない。ただ、そこにある事実をそのまま言うみたいな声。
それが、少女には何より深く届いた。
許された、とは少し違う。
何かを見逃してもらったわけでも、足りないところに目をつぶってもらったわけでもない。
そうではなくて、今ここにいる自分のままで、受け入れられたのだと分かる。
その感覚が、胸の奥に遅れて広がっていく。
少女は何か言おうとしたが、うまく息ができなくて、目の奥が熱く揺れた。
キルアはそんな少女を見ても、慌てて近づいたりはしなかった。
抱き寄せることもしない。
ただ扉を開けたまま、そこに立っている。
入るかどうかを、最後まで少女に委ねるみたいに。
そのことが、また泣きたくなるほどやさしかった。
少女は唇を噛んで、どうにか声を絞り出す。
「……でも」
この期に及んで、まだ何か言いたい。
返せるものがないとか、迷惑をかけるかもしれないとか、そういう不安を。
けれど、最後まで言い切る前に、キルアが小さく息を吐いた。
「お前さ」
ぶっきらぼうな声。
でも、どこか困ったようでもある声だった。
「帰ってくるのに、いちいち理由つけなくていいだろ。帰りたいから帰ってきた。それで十分」
その言葉は、あまりにもまっすぐだった。
理屈も条件もない。
何を持っているかでも、何を失ったかでもない。
ただ、帰りたいと思ったこと自体に意味があるのだと、そう言われた気がした。
少女の目から、とうとう涙がこぼれた。
一粒だけでは止まらず、頬を伝って次々に落ちていく。
泣くつもりではなかった。
扉の前では堪えられたのに、今はもう無理だった。
キルアはその涙を見ても、やはり責めない。
困ったように少しだけ眉を寄せる、それだけだ。
泣くことすら、止めようとしない。
少女は泣きながら、どうにか立っていた。
膝が少し震えるけれど、それでも、逃げたいとは思わなかった。
ここにいていい。
帰ってきていい。
今の自分でいい。
その言葉が、涙と一緒に身体の奥へ染み込んでいく。
キルアは少しだけ身体を引いて、扉の内側に空間を作った。
入れ、と命じるのではなく、ここに道があると示すだけみたいに。
少女は涙に濡れた瞳で、その開かれた空間を見つめる。
部屋の中の灯りはまだ明るすぎない。
見慣れた廊下の気配が、静かに続いている。
朝、自分で離れた場所。
でも今は、戻ってきていい場所。
少女は涙を拭いきれないまま、小さく一歩を踏み出した。
それだけで、胸の奥がまた大きく揺れる。
帰ってきたのだと、身体のほうが先に感じていた。
キルアはその一歩を見て、ほんの少しだけ表情をやわらげた。
安堵しているのが分かるけれど、それを大きく見せない。
その抑え方が、今の少女にはありがたかった。
少女は扉の敷居を越える直前、もう一度だけ小さく言う。
「……ほんとに、いいの?」
どうしても、確認せずにはいられなかった。
こんなふうに何度も確かめる自分が情けないのに、それでも、今はまだ必要だった。
キルアはすぐに答える。
飽きもせず、そんな自分に、答えをくれるのだ。
「いい」
今度はそれで十分だった。
少女はその一言に、また涙を零しながら、ようやく家の中へ足を踏み入れた。
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