81



見慣れた廊下、静かな空気、外より少しだけやわらかい温度。
たったそれだけのことなのに、胸の奥のどこかが強く揺れる。
 
――帰ってきた。
まだ頭ではうまく追いついていないのに、その感覚だけが先に身体へ広がっていく。
 
少女は扉のすぐ内側で立ち止まった。
涙はまだ止まりきっておらず、頬に残る熱も、喉の詰まりも、そのままで。
 
後ろで扉が静かに閉まる。
その音は、閉じ込める響きではなかった。
むしろ、外の風をやわらかく遮って、ここが内側なのだと、少女に教えるような音だった。
 
少女はその小さな音にさえ、また泣きそうになる。
 
キルアはすぐ隣にいるけれど、近づきすぎない。
手を引くことも、肩を抱くこともなく、ただ少女がちゃんと立っていられる距離で、静かに見守っている。

やさしいのに、押しつけがない。
戻ってきたことを喜んでいるのに、それを重さにしない。

そんなふうに迎えられることが、少女にはまだ少し信じられない。
 
しばらく、どちらも何も言わなかった。
 
沈黙は気まずくなく、むしろ言葉にしてしまうと壊れそうなものを、そっと包んでくれるみたいな静けさだった。
 
やがて、キルアが低く口を開く。
 
「……おかえり」
 
たった一言だった。
それなのに、その言葉は少女の胸のいちばん深いところへ、まっすぐ落ちた。
 
おかえり。
 
聞いた瞬間、息が止まりそうになる。

どうしてこんなに揺れるのか自分でも分からない。
初めて聞いたはずの言葉ではない気がした。
もっと前から、何度も知っていたみたいな、ずっと探していたものに急に名前がついたみたいな――。
 
懐かしい、と思った。
 
理由は分からないし、記憶もない。

それでも、その一言だけが、胸の奥のどこか古い場所をやさしく叩く。
 
少女の目から、また涙が溢れた。
 
今度はさっきよりも静かだった。
堪えきれずに零れるというより、その言葉に触れた瞬間、自然に溢れてしまったみたいな涙だった。
 
「……っ」
 
声にならない。
喉が詰まって、何も返せない。
 
キルアはそんな少女を見て、少しだけ困ったように眉を寄せる。
少女は涙を拭おうとして、うまくできずに指先を震わせた。
情けない。
こんなに泣いてばかりで、ちゃんと返事もできない。
それでも、今はもう取り繕えなかった。
 
――おかえり。

その言葉が、何度も胸の中で響く。
 
帰ってきた。
この家に、キルアのいる場所に。
そしてたぶん、自分がいてもいいと思える場所に。

その全部が、まだ輪郭の曖昧なまま、でも確かに胸の中にある。
 
少女は唇を噛み、どうにか息を整えようとした。
けれど整えるたびに、逆に涙が増える。

懐かしい、あたたかい、こわかった、うれしい――いろんな感情が一度に押し寄せてきて、自分でも持ちきれない。

キルアが小さく息を吐く気配がした。
それから、ほんの少しだけ声をやわらげる。
 
「……泣きすぎだろ」
 
ぶっきらぼうな言い方だが、責めてはいない。
むしろ、その不器用さが今はひどくやさしく感じられた。
 
少女は涙のまま、かすかに首を振る。
泣きたくて泣いているわけじゃない。
でも、止められない。
そう伝えたいのに、やっぱり言葉にならない。
 
キルアはそれ以上何も言わず、少しだけ身体をずらした。
 
廊下の先、部屋へ続く道が見える。
灯りのある、静かな内側。
戻ってきた人間が、ちゃんと進んでいけるように開けられた道だった。
 
少女はその先を見つめる。

部屋の中は見えないけれど、そこに続く空気は分かる。

夜ごとに安心していた気配、扉の向こうに感じていた灯り、自分が帰りたいと思った場所の続き。
 
胸がまた大きく揺れる。
 
少女は涙を零したまま、一歩ずつ進んだ。

足元はまだ少し頼りないけれど、もう引き返したいとは思わなかった。
 
そうやって部屋の前まで来たところで、少女は再び小さく肩を震わせた。
泣き声を堪えきれなくなる。それでも、前へ進む。
 
おかえり。
その一言だけで、こんなにも揺れるなんて思わなかった。
理由はまだ分からないけれど、分からなくてもいい気がした。
 
今はただ、帰ってきたという感覚だけが先にある。
 
少女は泣きながら、部屋の中へ入った。
 
その背中を、キルアは何も言わずに見送る。
追い立てることも、抱き止めることもせず、ただそこに帰ってきたことを受け止めるように。
 
部屋の中の空気は静かで、やわらかかった。
外へ出られる扉があって、でも戻ってこられる場所。
その輪郭が、ようやく少しずつ形になっていく。
 
少女は涙で滲む視界のまま、胸の奥でそっと思う。
 
帰ってきた。
 
まだ記憶はない。
まだ何も取り戻してはいない。
それでも、この感覚だけは本物だった。






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