82
少女は部屋の中で、ベッドの端に腰かけていた。
泣き疲れたせいか、身体は少し重い。
けれど、朝のような空虚さはもうなかった。
胸の奥にはまだ痛みも不安も残っているのに、それでもどこか、深く息をつける場所へ戻ってきた感覚がある。
扉は閉まっている。
でも、閉ざされているとは思わない。
向こうに人の気配があると知っているからかもしれない。
あるいは、もう一度ここへ入ることを自分で選んだからかもしれない。
部屋の灯りは控えめで、壁に落ちる影もやわらかい。
少女はぼんやりとその影を見つめながら、昼のことを思い返していた。
扉の前で立ち止まったこと。
震える手でノックしたこと。
キルアが扉を開けたときの顔。
何もなくない、と言われたこと。
今のお前が帰ってきたなら、それでいい、と――。
そして最後に聞いた、おかえり、の一言。
思い出すたび、胸の奥がじんわり熱くなる。
痛みが消えたわけではないけれど、その痛みの上から、やわらかい布をかけられたみたいに、少しずつ呼吸がしやすくなっていた。
そのとき、廊下の向こうで足音がした。
少女の肩が、ほんのわずかに揺れる。
知っている足音だった。
軽すぎず、重すぎず、迷いなく近づいてくる歩幅。
夜の静けさの中で、何度も耳を澄ませて探していた音。
怖い夜に、扉の向こうにそれがあるだけで少し眠れた音。
足音は部屋の前で止まる。
少女は無意識に息を止めた。
それだけのことなのに、胸の奥がきゅっと締まる。
懐かしい、と思うけれど、何がどう懐かしいのかは分からない。
控えめに扉が叩かれる。
「泣き止んだ?」
低い声。
ぶっきらぼうで、修飾のない、でも決して押しつけない声。
少女は喉の奥が熱くなるのを感じながら、小さく返した。
「……うん」
扉が少しだけ開く。
キルアが片手に湯気の立つカップを持っており、茶葉の香りが、ふわりと部屋へ流れ込んだ。
その瞬間、少女の胸の奥で何かが強く揺れた。
夜の静かな部屋。
扉の前で止まる足音。
低い声。
どれも、ここ最近の記憶として知っているはずのものだ。
なのに、それだけではない感覚がある。
もっと前から、何度も繰り返されてきたような――自分が弱っている夜に、怖くて眠れない夜に、何度もこの気配と足音に助けられてきたような、そんな気がした。
少女は目を見開いたまま、カップを見つめる。
キルアはその反応に少しだけ眉を寄せた。
「……熱いから気ーつけろよ」
そう言って差し出される。
少女は反射みたいに手を伸ばした。
差し出されたカップに手を伸ばしたとき、指先が触れた。
そのぬくもりに触れた瞬間、胸の奥でまた何かが弾ける。
温かい。
知っている。
この温度を、知っている。
少女の呼吸が浅くなる。
キルアが何か言おうとした気配がする。
でも、その前に、少女の中で断片がひとつ、またひとつと浮かび上がった。
夜、眠れずに何かに怯えている自分。
扉の向こうの足音。差し出される手。
低い声で、もう大丈夫だ、と言われる。
灯りのある部屋。
帰ってきたときに迎えられる感覚。
それは派手な光景ではなかった。
何か大きな衝撃が走るわけでもない。
ただ、日常の断片が、ひとつずつ胸の奥の深い場所へ触れていく。
足音、手のぬくもり、おかえり、ただいま――。
その言葉が、まだ誰の口からも出ていないのに、少女の内側で静かに重なった。
ただいま、おかえり。
その往復を、自分は知っている。
知っていた。
何度も、何度も。
少女の手が震え、カップの中のお茶が、わずかに揺れる。
キルアがそんな様子にすぐに気づいて、少し身を乗り出した。
「おい、大丈夫か」
その声に、また胸の奥が揺れる。
「大丈夫か」という問いかけ方。
心配を隠しきれないくせに、過剰に触れすぎない距離。
それも、知っている。
少女は答えられなかった。
喉が詰まって、息がうまくできない。
でも苦しいのとは少し違う。
何かが戻ってくる前触れみたいな、熱と眩しさが胸いっぱいに広がっていた。
安心の反復。
それが、少しずつ閉じていた扉を内側から開いていく。
怖かった過去。
守られていた時間。
帰る場所として灯っていた部屋。
その全部が、今この瞬間の足音と指先に残ったぬくもりに、結びついていく。
少女はカップを持ったまま、震える息を吐いた。
目の奥が熱いけれど、これはさっきまでの涙とは違った。
何かを思い出しかけている。
まだ形にはならないけれど、確かにそこにある。
キルアは少女の様子を見て、すぐには触れなかった。
ただ、手を伸ばせば支えられる距離に立っている。
心配な顔は隠せていないのに、どこまでも少女を優先しようと、自分の出方を測り直している。
その在り方さえ、ひどく懐かしい。
少女は震える指でカップを抱え、胸の奥で何度も繰り返される言葉を聞いていた。
――おかえり。
――ただいま。
鮮やかな映像ではない。
順序立った記憶でもない。
最初に戻ってきたのは、感覚だった。
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