要するに「かわいい」ってこと・後



その日の午後。

珍しく何の予定もなくて、部屋の中には紙をめくる音と、時々カップの触れ合う小さな音だけが静かに落ちている。

キルアはソファの端に座って、片手で本を持っていた。
けれど読んでいるようで、実際はあまり進んでいない。
向かいに座っていたはずのナマエが、いつの間にか隣に来ていたからだ。

最初はただ距離が近いだけだった。
同じソファに座ること自体は珍しくないし、恋人同士なのだから隣にいるのは自然だ。
肩が少し触れるくらいの距離も今さら意識するようなことじゃないはずなのに、ページをめくろうとした指先が、どうしてか少しだけ止まってしまう。

ナマエは静かだった。
何か話しかけてくるわけでもなく、ただ隣で雑誌を開いている。
けれど、その姿勢がさっきから少しずつ緩んでいるのを、キルアは気づかないふりで見ていた。

瞬きが遅くて、ページをめくる間隔も長い。
たまに視線が止まってそのまま数秒動かなくなるのを見て、眠いんだろうなと思う。
そう思ったところで、ナマエの肩がほんの少しだけこちらに傾いた。
触れるか触れないかのぎりぎりで止まって、また戻る。

キルアは本から目を上げなかったが、意識は完全にそっちに持っていかれていた。

また少し傾いて、今度は肩が軽く触れた。
ほんの一瞬だけ。
それだけで何もかもが、妙にそこだけ熱を持ったみたいに感じる。

ただ触れただけで、それもわざとじゃなく眠くて姿勢が崩れただけだと分かっているのに、どうしてこんなに意識するのか自分でもよく分からなかった。

「ナマエ」

名前を呼ぶと、隣から「ん……」と返事はあるものの、顔は上がらない。

「眠いなら寝れば」
「まだ平気……」
「平気そうに見えない」
「だいじょうぶ」

全然大丈夫じゃない声だった。

キルアはようやく本を閉じて、隣を見る。
ナマエは雑誌を膝に乗せたまま、少しだけ目を細めていた。

眠そうな顔、頬に落ちる髪、力の抜けた肩。
そういうひとつひとつが妙に目について、キルアは呆れたように息をつく。
でも本気で呆れているわけじゃなかった。
むしろ、そうやって眠くないふりをしているところまで含めて、どうしようもなく目が離せない。

そのとき、ナマエの体がまた少し傾いた。
今度は止まらずに、こつんと軽く肩に重みが乗る。

キルアは完全に黙った。

ナマエの頭が自分の肩にもたれている。
ほんの少し遠慮するみたいに、でもちゃんと預けられた重み。
髪が首元に触れて、くすぐったいような、落ち着かないような感覚が走る。

「……おい」

呼んでも返事はすぐにはこなくて、少し遅れて「ん……」とだけ返ってきた。その声が近すぎる。

「重い」
「……ごめん」
「いや、そういう意味じゃなくて」

反射で返してから、自分で何を言ってるんだと思う。
重いわけがない。
むしろ驚くくらい軽いのに、これくらいの重さしかないからこそ余計に意識してしまう。
これだけの重さなのに、こんなに存在感があるのはずるいだろと思う。

ナマエは謝ったくせに離れず、少しだけ位置を直すみたいに頭を寄せてくる。
その小さな動きにキルアの肩がぴくりと揺れる。

近い。
分かっていたことなのに、改めてそう思う。
恋人なんだからこれくらい普通だし、手をつないだことだって、もっと近い距離にいたことだってある。
なのに、眠くて無防備なまま寄りかかられるのは、なんだか別だった。

たぶん、相手があまりにも自然だからだ。
甘えようとしているわけでも、からかっているわけでもなく、ただ眠くて、安心して、気づいたら寄ってきているだけ。
その無自覚さがいちばん困る。

「ナマエ」
「……ん」
「ほんとに寝るなら、ちゃんと横になれって」
「ここがいい……」

キルアは息を止めた。
たぶん、寝ぼけている。
起きていたらこんなにあっさり言わないと分かっているのに、心臓に悪い。

「……は?」
「ここ、落ち着く……」

小さな声でそう言って、ナマエはさらに肩へ体重を預けた。
ブランケットも何もないのに、まるでそこがいちばん安心できる場所みたいな顔をしている。

――なんなんだよ、ほんとに。

キルアは視線を逸らした。
逸らしたところで、肩にある重みは消えない。
髪が触れる感覚も、近くで聞こえる静かな呼吸もそのままだ。
落ち着かないのに離したくなくて、その二つが同時にあるせいで余計に調子が狂う。

ナマエの呼吸は少しずつゆっくりになっていき、雑誌はもう完全に膝の上で閉じられたままになっていた。
指先から力が抜けて、ページの端をつまんでいた手がだらりと落ちる。

キルアはそれを見て、そっと雑誌を取り上げる。
起こさないように静かにテーブルへ置いてまた元の姿勢に戻ると、ナマエは安心したみたいに、ほんの少しだけ肩に頬を寄せた。

キルアはもう一度黙った。

ほんとにずるい。
眠いだけで、安心してるだけで、たぶん本人はあとでほとんど覚えていないかもしれないのに、こうして無防備に寄りかかられるだけで、こっちはどうしたらいいのか分からなくなる。

小さいとか、軽いとか、やわらかいとか、あたたかいとか。
そういう言葉が頭に浮かんでは消えるが、いちばん近い言葉だけは絶対に認めたくなかった。

「……ずりーわ」

聞こえないくらいの小さな声でこぼす。
もちろん返事はなく、ナマエはもうほとんど眠っている。

その顔を横目で見ると、まつげが静かに伏せられていて口元の力も抜けていた。
起きているときよりずっと幼く、無防備で、やわらかくて、放っておけない。

キルアは片手で自分の額を押さえた。ほんとに調子が狂う。

ただ隣に座っていただけだったのに、少し肩が触れて、気づけば寄りかかられていて、たったそれだけで本なんて全然読めなくなっている。

どう考えても自分の負けだった。

しばらくして、ナマエの手が小さく動いた。
行き場を探すみたいにソファの上をさまよって、やがてキルアの服の裾を軽くつかむ。

キルアは完全に固まった。

なんでそういうことするんだよと思う。
いや、たぶん何も考えていないし、眠っていてただ安心できるものを探しただけだと分かっているのに、破壊力が高すぎる。

つままれた裾を見下ろす。
指先の力は弱く、少し引けば簡単に離れるくらいの頼りない力なのに、そんなことできるわけがなかった。

キルアは小さく息をつくと、空いているほうの手でナマエの頭をそっと支え、首がつらくならないように少しだけ位置を整える。
触れた髪はやわらかく、その感触にまた胸の奥がざわつく。

「……ほんと、なんなの」

呆れたみたいに言う声は、ひどく静かだった。

ナマエは眠ったまま、少しだけキルアのほうへ擦り寄る。
それで完全にだめだった。
もう本当にどうしようもない。

こんなふうに寄りかかられて、服までつかまれて、安心したみたいに眠られたら、離れる理由なんてどこにもない。
むしろ、動いたら起こしてしまいそうで、それを言い訳にこのままでいられる自分が少しずるかった。

キルアはソファの背にもたれたまま、そっと息を吐く。
肩にある重みは軽いのに、胸の奥には妙に大きく残る。

たぶん、ずっとこうなんだろうと思う。
何気ない仕草ひとつで目が離せなくなって、少し触れられただけで調子が狂って、本人は何も分かっていない顔でこっちばかり振り回してくる。

なのに嫌じゃない。
むしろ、こうして寄りかかられている今この瞬間を、たぶんかなり気に入っている。
それがいちばん面倒だった。

窓の外では、午後の光が少しずつ色を変えていく。
部屋の中は静かで、聞こえるのはナマエの穏やかな寝息だけだった。

キルアはその音を聞きながら、つままれたままの服の裾に視線を落とし、それから、誰にも聞こえないくらい小さく呟いた。

「……要するに、そういうことだろ」

何が、とは言わない。
言う気もない。

ただ、肩にもたれたぬくもりをそのままに、キルアはもうしばらく動かないことにした。







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