03



通りには人が多すぎるほどではなく、けれど途切れもしない。
焼き菓子の甘い匂いと、どこかの店から流れてくる軽い音楽。
並んだ小物やリボンはどれも可愛く見えて、最初にこの通りへ連れてきてもらった日、ナマエは少しだけ夢みたいだと思った。

今日もそうなるはずだった。

「ちょっと待ってて」

そう言って彼女が店の奥へ入っていってから、少し時間が経っていた。
ナマエは入口の近くで、小さなガラスケースを眺めるふりをしながら待っていた。
淡い色のヘアピンが並んでいる。
この前、彼女が「ナマエちゃん、こういうの絶対似合う」と笑ってくれたのを思い出して、胸の奥が少しだけあたたかくなりかける。

そのとき、奥のほうから声がした。

最初は気にしなかった。
店員さんと話しているのかもしれないと思ったから。

でも、次に聞こえた自分の名前に、ナマエの指先が止まる。

「だからさ、ナマエちゃん通したほうが早いと思ったんだって」

聞き慣れた、明るい声だった。

ナマエは息を止める。

奥までは見えない。
棚とカーテンの影で、姿は隠れている。
けれど声だけは、思ったよりはっきり届いた。

「だってあの子、すっごい素直だし。ちょっと褒めたらすぐ嬉しそうにするし、誘えば来るし」

くすくすと笑う声が重なる。
もうひとり、誰かいるらしい。

「キルアくん、全然愛想ないんだけどさ。でもナマエちゃん挟めば、もうちょっとやりやすいかなって思ったのに」

心臓が、どくんと大きく鳴った。

何を言われているのか、一瞬わからなかった。
言葉は聞こえているのに、意味だけが遅れてくる。

「ていうか、あの子ほんと本気で友達だと思ってるっぽくて、ちょっとびっくりした」
「え、かわいそ〜」
「可哀想っていうか、ちょろいんだよね。ああいう子って、優しくしとけば勝手に懐くし」

笑い声。

ナマエの喉がひどく乾く。
足元が少し揺れた気がした。
でも実際に揺れているのは、自分の感覚のほうだと分かる。

「でもキルアくん、思ったより面倒。あの子のことになるとすぐ空気変わるし」
「じゃあ無理じゃない?」
「んー……どうだろ。でも正直、なんであんな子が恋人なんだろって感じ」

その一言が、いちばん深く刺さった。

あんな子。

頭の中で、その言葉だけが変に残る。

「守ってもらってるだけじゃん。自分じゃ何もできなさそうだし。ああいうのが好きなのかな」

また笑い声がした。

ナマエは何も持っていないはずなのに、指先に力が入る。
痛いくらい握っているのに、感覚が薄い。

帰りたい、と思った。
聞きたくなかった。
でも、もう遅かった。

「まあ、もういいかな。キルアくん落ちなさそうだし、ナマエちゃんも思ったより使えないし」

使えない。

その言葉で、何かが完全に冷えた。

ナマエは一歩下がろうとして、棚の端に軽くぶつかった。

小さな音が鳴る。
奥の話し声が止まった。
しまった、と思ったときには、もう遅い。

カーテンの向こうから彼女が顔を出す。
目が合った。
一瞬だけ、驚いた顔。次に、気まずそうな顔。
そしてそのあと、すぐに何かを計るみたいな目になる。

「……ナマエちゃん」

いつものやわらかい声だった。
でも、もう同じには聞こえない。

ナマエは口を開こうとした。
何か言わなきゃと思ったけれど、喉がうまく動かない。

彼女は少しだけ眉を下げて、こちらへ歩いてくる。

「違うの、今の」
「……」
「ちょっと言い方悪くなっちゃっただけで——」

違う。たぶん、違わない。

そう思うのに、言葉にならない。

彼女はナマエの前まで来ると、困ったように笑った。

「そんな顔しないでよ。別に全部嘘だったわけじゃないし」
「……え」
「一緒にいて楽しかったのはほんとだよ? でも、キルアくんに近づきたかったのもほんとっていうか」

軽い。あまりにも軽い言い方だった。

ナマエは目を瞬く。
視界が少しぼやける。

「ナマエちゃんがいると、話しかけやすいかなって思ったの。それの何がそんなにショックなの?」
「……」
「だって、あなただって分かってたでしょ? わたしがキルアくんのこと気にしてるの」

途中から、少しは気づいていたのかもしれない。
でも、それでも。

――友達だと思っていた。

その言葉が、喉の奥で引っかかって出てこない。

彼女はナマエの沈黙を、責められていないと受け取ったのか、少しだけ苛立ったように息をついた。

「ていうか、そんなに傷ついた顔されても困るんだけど」
「……」
「重いよ。ちょっと仲良くしたくらいで、本気で友達みたいに思われても」

その瞬間、ナマエの肩が小さく震えた。

恥ずかしい、と思った。
嬉しかったこと。浮かれていたこと。帰ってからキルアに話したこと。次は何を着ていこうって少し考えたこと。

全部、急にひどく恥ずかしくなる。

「ごめんなさ……」

反射みたいに、謝りかけた。
でも、その言葉は最後まで出なかった。

「何でお前が謝んだよ」

低い声が、横から落ちた。
ナマエがはっとして振り向く。

店の入口のところに、キルアが立っていた。

いつからいたのか分からない。
人の出入りの音も、足音も、何も気づかなかった。
ただ、その目だけがひどく冷たかった。
彼女が目を見開く。

「え、キルアくん——」
「呼んでない」

短く切り捨てる声だった。

キルアはまっすぐこちらへ歩いてくる。
ナマエの前に立つでもなく、完全に庇うでもなく、でも彼女とのあいだに入る位置で止まった。
それだけで、ナマエは少しだけ息がしやすくなる。

「聞こえてたから、全部」

彼女の顔が強ばる。
それでもすぐに取り繕うように笑った。

「ちょっと誤解だよ。わたし、そんなつもりじゃ——」
「あるだろ」
「だから、言い方が悪かっただけで」
「じゃあ言い直せば?」

静かな声だった。怒鳴りもしない。
なのに、空気だけがひやりと冷える。

彼女は言葉に詰まる。
キルアは一度も表情を変えないまま続けた。

「利用するつもりだったのも」
「……」
「友達だと思ってるの、ちょろいって笑ったのも」
「……」
「使えねーって言ったのも」
「……」
「なんであんな子が恋人なんだって言ったのも」

ひとつずつ並べられるたびに、ナマエの胸の奥がまた痛む。
でも同時に、さっきまでひとりで受け止めていたものを、誰かがちゃんと“ひどいこと”として言葉にしてくれるのが、少しだけ救いだった。

彼女は唇を噛んで、少しだけ声を尖らせる。

「……そんなに怒ること? だってこの子、実際すぐ信じるし」
「だから何」
「え?」
「信じたほうが悪いって言いたいんだ?」
「そういう意味じゃなくて」
「じゃあどういう意味だよ」

彼女は答えられない。

キルアの声は低いままだった。
でも、その低さの奥にある怒りは、ナマエにも分かるくらいはっきりしていた。

「……嬉しかったんだよ」

その一言に、ナマエの呼吸が止まる。
キルアは彼女を見たまま言う。

「友達できたって、あんなに喜んでた」
「……」
「それ知ってて利用したなら、なおさら最悪」

彼女の顔がわずかに歪む。
言い返したいのに、うまく言葉が出ない顔だった。

「……別に、そこまで言われるほどのことしてないし」
「してる」
「本人たちの問題でしょ」
「違うけど」

即答だった。

「オレの泣かせといて、関係ないわけねーだろ」

その一言が、あまりにも迷いなくて、ナマエはまた視界が滲みそうになる。

キルアはもう彼女を見るのも面倒になったみたいに、少しだけ顎を引いた。

「もう近づくな」
「……」
「次、こいつに話しかけたら許さない」

脅すような大声ではなかった。
でも、その静かさのほうがずっと怖かった。

彼女は顔を青くして、何か言いかけて、結局何も言えずに視線を逸らした。

キルアはそれ以上相手にしなかった。
くるりと向きを変えて、ナマエのほうを見る。
さっきまでの冷たさが、少しだけ薄れる。

「行くぞ」

短い声だった。

ナマエはすぐに動けなかった。
足が重い。喉も痛い。
恥ずかしさと、悲しさと、情けなさがぐちゃぐちゃで、うまく息ができない。

キルアはそれを見て、少しだけ眉を寄せる。
でも急かさなかった。

「……歩けるか?」

その聞き方が、さっきの彼女の言葉よりずっとやさしくて、ナマエは小さく頷くことしかできなかった。
キルアは何も言わず、流れるようにその小さな手を取る。
ナマエはキルアに連れられる形で、その場を去った。







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