05



家に着くまでのあいだ、キルアはほとんど何も言わなかった。
必要以上に励ますこともしないし、無理に明るく振る舞わせようともしない。
ただ、歩く速さをナマエに合わせて、車道側をさりげなく自分が歩いて、手だけは最後まで離さなかった。

玄関の扉が閉まると、外のざわめきがようやく遠くなる。
その音に少しだけ肩の力が抜けた瞬間、ナマエは自分が思っていたよりずっと疲れていたことに気づいた。
靴を脱ぐ指先が少しもつれて、うまく揃えられない。

キルアはそれを見て、何も言わずにしゃがみこんだ。
ナマエが脱ぎ散らしかけた靴を揃えて、ついでみたいな手つきで鞄も受け取る。

「……ありがと」
「ん」

短い返事だけ。
でも、その声は外にいた時より少しだけやわらかかった。

リビングに入ると、キルアはナマエをソファへ座らせた。
座って、と言うより、半ば当然みたいな流れでそこへ導かれる。

「動くな」
「そんなにひどくないよ」
「今日はそういう問題じゃねーから」

ぴしゃりと返されて、ナマエは小さく口を閉じる。
けれど、その言い方に昼間みたいな鋭さはなかった。
怒っているというより、これ以上無理をさせたくないだけなのだと分かる。

キルアはキッチンへ向かい、しばらくしてからマグカップを二つ持って戻ってきた。
片方をナマエの前に置く。

「甘いやつ」
「……入れてくれたの?」
「見りゃ分かるだろ」

湯気の立つカップから、やさしい甘い匂いがした。
ひと口飲むと、あたたかさが喉を通って、張りつめていたものが少しだけほどける。

キルアは向かいに座るでもなく、ナマエの隣に腰を下ろした。
近すぎず、遠すぎない距離。
でも、手を伸ばせばすぐ触れられる場所だった。

しばらく、部屋は静かだった。
ナマエはカップを両手で包んだまま、ぼんやりと湯気を見つめる。

頭の中ではまだ、店の奥で聞いた言葉が何度も繰り返されていた。
思い出したくないのに、勝手に浮かぶ。
たぶんそれが顔に出ていたのだろう。
隣から、低い声が落ちる。

「……まだ考えてる?」

ナマエは少し迷ってから、小さく頷いた。

「うん」
「そっか」

否定も、励ましも、すぐには来なかった。
その代わり、キルアの手がそっとナマエのカップを持つ手に触れる。
熱くない方の指先を選ぶみたいに、やさしく。

「今日はもう、無理に忘れなくていい」
「……」
「でも、あいつの言ったことを本当みたいに思うな」

ナマエは唇を噛む。

「……でも、わたし、ほんとに気づけなかった」
「うん」
「嬉しくて、全然……」
「それでいい」

きっぱりと言われて、ナマエは目を上げる。
キルアはまっすぐ前を見たまま、少しだけ眉を寄せていた。

「気づけなかったことより、嬉しかったことのほうを恥ずかしがるな」
「……」
「お前がちゃんと向けたもんを、勝手に踏みにじられただけだろ」

その言葉は、外で言われた時よりも静かで、深く沁みた。
ナマエは何か返そうとして、でもうまく言葉にならなくて、代わりにカップを持つ手に少しだけ力を込める。
するとキルアが、ふっと息をついた。

「……貸せ」

そう言ってカップをテーブルに置かせると、そのままナマエの肩を引き寄せる。
抵抗する間もないくらい自然な動きだった。

「キルア……」
「寄りかかっとけ」

低い声が、頭のすぐ上から落ちる。
ナマエは少しためらってから、そっと体重を預けた。

キルアの肩はあたたかくて、思っていたよりずっと安心する。
背中に回った手が、一定のリズムでゆっくり撫でてくれる。

「……子どもみたい」
「今さらだろ」
「ひどい」
「泣いてたやつが言うな」

ぶっきらぼうな返しなのに、わざと少しだけ軽くしてくれているのが分かる。
ナマエは小さく笑って、それから目を閉じた。

そのまましばらく、何も言わずに寄り添っていると、身体の奥に残っていた強張りが少しずつ抜けていく。
悲しかったことは消えない。
でも、ひとりで抱えていた時ほど鋭くはなくなっていた。

「……眠い」

ぽつりとこぼすと、キルアの手が一度だけ止まる。

「寝ろ」
「ここで?」
「ベッド行くか」
「……うん」

立ち上がろうとすると、少しだけ足元がふらつく。
その瞬間、キルアの手がすぐ腰のあたりを支えた。

「ほら」
「大丈夫」
「知ってる。けど支える」

言い切られて、ナマエは少しだけ頬をゆるめる。

ベッドに入ると、安心したせいか、眠気はすぐに強くなった。
キルアが毛布を整えてくれる。
子ども扱いみたいだと思うのに、今日はそれが嫌じゃなかった。

「……キルア」
「ん」
「いてくれてよかった」
「……知ってる」

短い返事だった。
でも、毛布の端を直す手つきはやさしかった。

ナマエはそのまま目を閉じる。
眠りに落ちる直前、額に何かがそっと触れた気がしたけれど、確かめる前に意識は沈んでいった。



寝息が深くなったのを確認してから、キルアはようやく手を離した。

部屋は静かだった。
カーテンの隙間から差し込む夜の光が、ベッドの端とナマエの頬を淡く照らしている。

眠ってしまえば、さっきまで泣いていた顔も少しだけ幼く見える。
目元はまだ少し赤い。
たぶん、明日の朝には少し腫れる。
キルアはベッドの脇に腰を下ろしたまま、しばらくその顔を見ていた。

――あんな顔、させたくなかった。

思考より先に、感情がそう落ちる。

店で聞いた言葉を思い出す。
ちょろい。使えない。守ってもらってるだけ。
頭の中で反芻した瞬間、胸の奥がまた冷たくなる。
腹が立つ、なんてもんじゃない。
今からでも戻って、あいつらの前で全部言い返させたいくらいだった。
いや、言い返すだけじゃ足りない。
泣かせたことを後悔させるくらいには、もっと徹底的に突き放してやりたかった。

でも、そんなことをしても、今日ナマエが受けた痛みが消えるわけじゃない。

キルアは小さく息を吐く。
苛立ちを押し込めるみたいに、膝の上で指を組んだ。

あいつらが最低なのは、もう分かってる。
問題はそこじゃない。
ナマエが、嬉しかったことまで恥ずかしいと思いかけたこと。
信じた自分が悪いみたいに、泣きながら言ったこと。
そっちのほうが、ずっときつかった。

「……違うだろ」

誰に聞かせるでもなく、低く呟く。

信じたことは悪くない。
嬉しかったことも悪くない。
ちゃんと誰かを好きになって、友達になれたかもしれないって喜んだことの、何が悪い。
それを笑ったやつが終わってるだけだ。

分かってる。
頭では、はっきり分かってる。
でも、ナマエはたぶん、しばらく引きずる。
次に誰かに優しくされても、少し疑うかもしれない。
また同じことになったらどうしようって、どこかで思うかもしれない。
そこまで想像して、キルアは眉を寄せた。

そういう傷の残り方が、いちばん嫌だった。

身体の怪我なら手当てができる。
痛い場所が分かれば、冷やすなり薬を塗るなり、やれることがある。
でも今日のこれは、どこに触れれば治るのか分からない。
だから余計に腹が立つ。

キルアは眠るナマエの手元を見る。
毛布の上に出た指先が、少しだけ丸まっていた。
起きている時は平気な顔をしようとしても、眠ると少しだけ無防備になる。
その手に、自分の指先をそっと重ねる。

「……オレがちゃんと覚えとく」

小さく落ちた声は、独り言というより誓いに近かった。

今日、どんな顔で泣いたか。
どんな言葉で傷ついたか。
何を恥ずかしいと思って、何を否定されるのがつらいのか。
全部、覚えておく。

次に似たようなことがあった時、もっと早く気づけるように。
ナマエが自分で言葉にできなくても、先に拾えるように。

守るって、たぶんこういうことも含むんだろうと思う。
危ないものから遠ざけるだけじゃない。
傷ついたあとに残るものまで、見落とさないこと。
平気なふりの下にある痛みを、ちゃんと覚えておくこと。

キルアは目を伏せる。

「……友達、できたって喜んでたのに」

嬉しそうな顔を思い出す。
話すたびに少し声が弾んで、次は何を見に行こうかって考えていた顔。
それを知っていたからこそ、店で聞いた言葉は余計に許せなかった。

あんなふうに笑ってたのに。
あんなふうに楽しそうだったのに。

それを利用して、最後に“重い”で切り捨てるなんて、最低にもほどがある。

キルアはもう一度、眠るナマエの頬を見る。
泣き疲れて眠った顔は静かで、今は少しだけ安心しているようにも見えた。
せめて今夜くらい、嫌な夢を見なければいいと思う。

「……次は、もっと早く行く」

ぽつりと零れた声は、半分は本音で、半分は自分への苛立ちだった。
傷ついて帰ってくる前に気づけたらと思ってしまう。
泣く前に、あんな顔になる前に、手を引けたらよかったのにと。

それはたぶん、過保護なんだろう。
分かってる。
分かってるけど、今日くらいはそう思うのをやめられなかった。

キルアは身を乗り出して、ナマエの前髪をそっと払う。
起こさないように、触れるか触れないかくらいのやさしさで。

「……でも、次はオレに頼れ」

眠っている相手に言っても仕方ないのに、口から出た。

「一人で平気な顔すんな」
「……」
「嬉しかったことまで、なかったことにすんな」

返事はない。
あるのは静かな寝息だけだ。
それでもキルアは、少しだけ気が済んだみたいに息を吐く。

「お前が悪くないって、何回でも言うから」

低い声は、夜の静けさに溶けるように落ちた。

しばらくそのまま座っていたあと、キルアはようやく立ち上がる。
部屋の灯りをもう一段落として、ベッドの端に手をつく。

「……おやすみ」

起きている時にはたぶん言わないような、ひどく静かな声だった。
それからもう一度だけナマエの髪を撫でて、キルアはようやく自分の眠る場所へ戻った。

けれど完全に目を閉じるまでには、まだ少し時間がかかった。

隣にいるぬくもりを確かめるみたいに、そっと手を伸ばす。
触れた毛布の向こうに、ちゃんと体温がある。
それでようやく、胸の奥のざわつきが少しだけ静かになった。







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