01



“こうありたい”が、上手くいかない。
“こうしたい”が、不安に飲み込まれて埋もれてしまう。
あの日決めたはずなのに、同じところをぐるぐる回っている。



ナマエは小さな鞄の口を閉じながら、机の上に置いていたハンカチを手に取った。

ほんの少しだけ出かけるつもりだった。
暗くなる前には戻れる距離で、時間もそんなにかからない。
本当なら、こんなふうに少し外へ出ることを、いちいち大げさに考える必要なんてないのかもしれない。
けれど今の二人には、まだそういう小さなことほど、言葉にしておいた方がいい気がしていた。

リビングの方では、キルアがソファに浅く腰掛けたまま、本をぱらぱらとめくっている。
読んでいるようで、たぶん半分くらいしか頭に入っていない。
静かな時間だった。

ナマエは少しだけ迷ってから、そちらへ歩いていった。

「キルア」

呼ぶと、キルアが顔を上げる。
淡い夕暮れの色が、その銀髪の輪郭をやわらかく染めていた。

「ん?」
「ちょっとだけ、出てくるね」

それだけのつもりだった。
本当に、それだけのつもりだった。

キルアは一瞬、素直に頷きかけた。

あの日、自分で言ったのだ。信じる、と。
ちゃんと歩いて、それでも戻ってくるのだと、そう信じてもいいのかもしれないと、たしかに思えたはずだった。
だから今も、すぐ戻ると言うなら、送り出せばいい。
笑って「いってらっしゃい」と、それだけ言えたらよかった。

けれど次の瞬間、胸の奥のもっと古いところが、ひやりとざわついた。
ひとりで。
見えないところへ。
自分の手の届かない場所へ。
喉まで出かかった言葉が、そこで止まる。

「……どこ」

声音は低くも強くもない。
ただ、反射みたいに出た警戒が、そこにあった。
ナマエはそれに気づいて、でも気づかないふりをするみたいに、小さく笑った。

「近くだよ。すぐ戻る」
「だから、どこだって聞いてんだけど」

少しだけ、空気が変わる。
ナマエは鞄の紐を握り直した。

責められているわけじゃない。
心配しているだけだ。
それは分かっている。
分かっているのに、胸の奥がほんの少しだけきゅっと縮こまる。

キルアの方も、自分の声にわずかに眉を寄せていた。
違う、と思う。
こんなふうに言いたかったわけじゃない。
問い詰めたいわけでも、怯えさせたいわけでもなかった。
けれど、一度こぼれた警戒は、もう無かったことにはできない。

「買いたいものがあって」
「何」
「……ちょっとしたもの」
「それ、今言えないやつ?」

言いながら、また胸の奥が冷える。
違う。これも違う。
本当はそんなふうに、ひとつずつ塞いでいきたいわけじゃない。
それでも、口をついて出るのは確認ばかりだった。

言えば言うほど、自分が相手の行き先を狭めていくみたいで、余計に息がしづらくなる。
理由を言わずにいる姿に、更に気持ちが波打つ。

キルアは本を閉じて立ち上がった。
その動きは自然だったけれど、ナマエには、もう一歩こちらへ踏み込まれたように感じた。

「オレも行く」

ナマエは一瞬だけ目を瞬いた。

「え」
「一緒に行けばいいだろ」
「でも、ほんとにすぐだよ」
「だから?」
「今日は、一人で大丈夫」

その言葉が落ちた瞬間、キルアの表情がわずかに固まった。

ナマエはしまった、と思った。
言い方が悪かったかもしれない。
“あなたがいなくても平気”と言いたかったわけじゃない。

キルアの方も、もううまく引き返せなくなっていた。
本当なら、ここで止まれたはずだった。
「そっか」と言って、せめて困らせる前に引けばよかった。
信じると決めたのなら、今こそそうするべきだった。
なのに、胸の奥でざわつくものが、それを許さない。

「……大丈夫とか、そういう話じゃねーだろ」

声が少しだけ硬い。

ナマエは唇をきゅっと結んだ。
喧嘩したいわけじゃない。
こんなことで空気を悪くしたいわけでもない。
それでも、ここで曖昧に笑って頷いてしまったら、あの海辺のことが、無かったことになってしまう気がした。

「どうして?」
「は?」
「どうして、そういう話じゃないの?」

キルアが言葉に詰まる。
ナマエはその顔を見て、胸の奥が少しだけ痛んだ。
困らせたいわけじゃない。
でも、聞かずにはいられなかった。

「わたし、すぐ戻るって言ったよ」
「……うん」
「近くだって言った」
「うん」
「それでもだめなの?」

キルアは視線を逸らした。
窓の外では、風に揺れた木の葉が、かすかに擦れる音を立てている。
その静けさが、かえって二人のあいだの息苦しさを際立たせていた。

「だめっていうか……」
「うん」
「何かあったらどうすんだよ」

その言葉に、ナマエは少しだけ目を伏せた。
やっぱり、と思った。

キルアは責めているわけじゃない。
ただ怖いのだ。
失うことが、手の届かないところで何かが起こることが。
それは分かる。
分かるけれど、それでも胸の奥に小さな棘みたいなものが刺さる。

「キルア」

ナマエは静かに呼んだ。

「この前、信じるって言ってくれたよね」

キルアの肩が、ほんのわずかに揺れる。

「……言った」
「うれしかった」
「……うん」
「すごく、うれしかったの」

そこで一度言葉を切る。
喉の奥が少しだけ熱い。
泣きたいわけじゃないのに、声がうまくまっすぐ出てくれない。

「だから、今の言い方……ちょっとかなしい」

キルアがはっとしたように顔を上げた。
ナマエは怒っていなかった。
責めてもいなかった。
ただ、傷ついていた。

そのことが、たぶんキルアにはいちばんきつかった。

「……そういうつもりじゃ」
「うん、分かってる」
「じゃあ」

「分かってるけど、かなしいの」

やわらかい声だった。
やわらかいのに、逃げ場がない。
キルアは何か言おうとして、言葉を失った。

違う、と言いたい。
傷つけたいわけじゃない、と。
ただ心配で、怖くて、うまくできないだけだと。

でもそれをそのまま口にしたら、結局またナマエに“受け止める側”をさせてしまう気がした。

沈黙が落ちる。
ナマエは鞄を胸の前で抱えるみたいに持ち直した。
その仕草が、少しだけ自分を守るみたいに見えて、キルアの胸がざわつく。

「……オレが一緒じゃだめなの」

ぽつりと落ちた声は、思っていたよりずっと幼く聞こえた。
ナマエは目を瞬いた。
その言葉の奥にあるものが分からないほど、鈍くはない。
拒まれたくない気持ち。
置いていかれたくない気持ち。
それが見えてしまって、胸が痛くなる。

「だめじゃないよ」

ナマエは小さく首を振った。

「だめじゃない」
「じゃあ」
「でも、今日は一人で行きたいの」

キルアの眉が寄る。

「なんで」
「……それは」
「言えないわけ」
「言えないっていうか……今はまだ、ないしょ」

ほんの少し、困ったように笑ってみせる。
本当は、帰ってきてから渡したかった。
ちゃんと顔を見て、ちゃんと手渡したかった。
だから今は言えない。
ただそれだけなのに、今の空気の中では、その“ないしょ”がひどく遠いものに思えた。

キルアの表情が、目に見えて曇る。

「ないしょで、一人で行くのかよ」
「……うん」
「オレに言わずに?」
「言ってるよ。今」
「そういうことじゃねーだろ」

声が少し強くなる。
ナマエの肩がぴくりと揺れた。
その小さな反応を見て、キルアもすぐにしまったと思った。

まただ、と思う。
止めたいのに、止まらない。
言い方を選ぶより先に、責めるみたいな響きになってしまう。

「キルア」

ナマエの声も、少しだけ震えていた。

「わたし、ちゃんと戻ってくるよ」
「……」
「それでも、だめ?」

キルアは答えられなかった。
だめだと言いたいわけじゃない。
本当は、いいよと言いたい。
気をつけて、と。
いってらっしゃい、と。
そう言えたらどれだけいいか、自分がいちばん分かっていた。

でも、いいとも言えない。
頭では分かっている。
ここで頷けたらいい。
笑って送り出せたらいい。
そうしたい。
本当にそうしたいのに、胸の奥のもっと古いところが、勝手にざわつく。

行かせたくない。
見えないところに行ってほしくない。
何かあったらどうする?
戻ってこなかったらどうする?

深いところにこびりついた考えが、一瞬で喉元までせり上がってくる。

「……お前、もっと自分が危なっかしいって自覚持った方がいい」

言った瞬間、空気が止まった。
ナマエは何も言わなかった。
ただ、目を見開いて、じっとキルアを見た。

キルア自身が、いちばん先に後悔していた。
違う。
言いたかったのはそんなことじゃない。
本当は、怖いのは自分の方だった。
なのに出てきたのは、相手を縛るみたいな言葉だった。

ナマエの唇が、かすかに震える。

「……わたし、そんなに頼りない?」

その声は小さかった。
小さいのに、キルアの胸のいちばん痛いところにまっすぐ届いた。

「ちが……」
「前も言ったけれど、守ってくれるの、うれしいよ」
「ナマエ」
「一緒にいてくれるのも、すごくうれしい」
「ちがう、オレは」
「でも」

そこでナマエは一度息を吸った。
泣かないようにするみたいに、ほんの少しだけ顎を上げる。

「信じてもらえないのは、かなしい」

キルアは何も言えなかった。

ナマエの目は潤んでいた。
けれど涙は落ちなかった。
落とさないようにしているのが分かるから、余計につらい。

「……ごめん」

やっと出た声は、ひどく掠れていた。
ナマエは小さく首を振る。

「ううん」
「ごめん、オレ……」
「でも、今はちょっと」
「……」
「うまく話せない」

その言葉に、キルアの指先がぴくりと動く。
引き止めたい。
今すぐ謝りたい。
ちゃんと違うと言いたい。
せめて今度こそ、「いってらっしゃい」と言い直したかった。

でも、今ここで手を伸ばしたら、それこそまたナマエの行きたい方向を塞ぐことになる気がした。

ナマエは玄関へ向かう。
足音は小さい。
いつもと同じはずなのに、今日はやけに遠く聞こえた。
キルアも数歩遅れてついていく。
何か言わなければと思うのに、喉が詰まってうまく声にならない。
ナマエが靴を履き、扉に手をかける。
その細い指先を見た瞬間、キルアはたまらず口を開いた。

「……待てよ」

ナマエの肩が止まる。
けれど振り返るまでに、ほんの少しだけ間があった。
その横顔は、泣きそうなのをこらえている顔だった。
キルアの胸が、ぎゅっと縮む。

「……今は、だめ」

ナマエは小さく言った。

「今、引き止められたら、ちゃんと笑えない」

その言葉は責めるものではなかった。
ただ、正直だった。
だからこそ、キルアは何も返せない。

扉が開く。
夕方の潮風が、ひやりと流れ込んでくる。
ナマエは一度だけ振り返った。
何か言いたそうに唇が動いて、それでも結局、何も言わずに外へ出た。

扉が閉まる。
かちり、という小さな音が、やけに大きく響いた。
家の中が急に静かになる。
さっきまで確かにあったぬくもりが、そこだけすっぽり抜け落ちたみたいだった。

キルアは玄関の前に立ち尽くしたまま、しばらく動けなかった。
夕暮れの気配が、少しずつ夜に近づいていく。
けれどキルアはまだ、立ち上がれなかった。







戻る


top