02



扉が閉まってから、どれくらい時間が経ったのか分からなかった。

玄関先にしゃがみこんだまま、キルアはしばらく動けなかった。
潮風の匂いが、まだ薄く残っている。
さっきナマエが出ていった時に流れ込んできた外の空気が、そのまま家の中に取り残されているみたいだった。

やがて膝に埋めていた顔を上げても、何かが変わるわけではなかった。

静かな家。
開いたままの窓。
机の上に置かれた本。
さっきまでそこにいたナマエの気配だけが、どこにも触れられない形で残っている。

キルアはゆっくり立ち上がった。
立ち上がったところで、何をするでもない。
ただ落ち着かなくて、リビングと玄関のあいだを意味もなく行き来する。

追いかけるべきだったのかもしれない。
いや、違う。
あの時追いかけていたら、たぶんまた同じことをした。
謝るふりをして、結局は自分の安心のために引き止めていた気がする。

でも、だからって何もしないで待っているのが正しいのかも分からない。

「……くそ」

小さく吐き捨てた声は、ひどく空しかった。

時計の針が進む音がやけに耳につく。
こんなに静かな家だっただろうかと思う。
ナマエがいる時は、もっとやわらかい音がしていた気がする。
ページをめくる音とか、食器の触れ合う小さな音とか、歩く時の控えめな足音とか。
そういうものが、知らないうちに全部、家の空気をあたためていたのだと、いなくなってから気づく。

キルアはソファの背に手をついたまま、深く息を吐いた。
うまく吐けた気がしなかった。

頭の中では、さっきの会話が何度も繰り返されていた。

――お前、もっと自分が危なっかしいって分かった方がいい

最悪だった。
言った瞬間に分かっていた。
あんな言い方をしたかったわけじゃない。

心配だった。
怖かった。
ただそれだけだったはずなのに、口から出たのは、ナマエの足を止めるための言葉だった。

信じたいと思ったのは嘘じゃない。
あの夕暮れの海沿いで、ちゃんとそう思った。
自分の足で歩けるようになっても、それでも帰ってきてくれるのだと、信じてもいいのかもしれないと。
あの時、胸の奥でたしかに何かがほどけたはずだった。

なのに。

いざその“歩く”が目の前に来たら、身体の奥のもっと古いところが先に反応した。

失いたくない。
見えないところへ行ってほしくない。
手の届く範囲にいてほしい。

それはもう、守ることとは少し違っていた。

「……っ」

キルアは眉を寄せ、片手で目元を覆った。
自分の中にまだ残っているものの形が、嫌になるほどはっきり見えてしまった気がした。

守りたいんじゃなくて、閉じ込めたいんじゃないか。
信じたいんじゃなくて、安心したいだけなんじゃないか。

そんなふうに考えてしまう自分が、どうしようもなく嫌だった。

ナマエは、ちゃんと戻ると言った。
それなのに自分は頷けなかった。
あいつの言葉より、自分の不安の方を信じた。

それが、たまらなく苦しかった。

キルアはそのまま窓際まで歩いていき、外を見た。 夕焼けはもうだいぶ沈んでいて、空の色は群青に近づき始めている。
遠くで波の音がする。
くじら島の夜は静かだ。静かなぶんだけ、考えたくないことまでよく聞こえる。

もし、このまま戻ってこなかったらどうする。

その考えが浮かんだ瞬間、喉の奥がひやりとした。 すぐに打ち消そうとしたのに、頭は勝手に最悪の方へ転がっていく。

どこかで転んだかもしれない。
知らない誰かに声をかけられたかもしれない。
泣いているかもしれない。
自分のせいで、もう帰りたくないと思ってしまったかもしれない。

「……やめろ」

誰に言うでもなく、低くこぼす。けれど想像は止まらない。

あの時、引き止めなかったのは正しかったのか。
いや、そもそも引き止めるようなことを言わなければよかった。
最初から笑って送り出せばよかった。
“いってらっしゃい”の一言で済んだはずなのに。

キルアは唇を噛んだ。血の味はしなかった。ただ、奥歯のあたりが鈍く痛んだ。

自分はいつもこうだと思う。
大事なものほど、うまく触れない。
壊したくないのに、怖くなって、余計な力を入れてしまう。
やさしく持ちたいのに、失う想像に耐えられなくて、指先が強ばる。

ナマエのことだけは、そうしたくなかったのに。

「……ごめん」

今さら誰にも届かない声が、静かな部屋に落ちる。

その時だった。

ぱた、と小さな羽音がした。

キルアは顔を上げる。玄関の方ではない。窓際だ。

開けたままの窓辺に、一羽の伝書鳩がとまっていた。
灰色がかった羽をふくらませて、落ち着かなさそうに首を揺らしている。
足には細い紐で、小さな白い封筒が結ばれていた。

キルアは一瞬、息を止める。

白い封筒。
見慣れた字で、短く名前だけが書かれている。

――キルアへ

その文字を見た瞬間、心臓がどくんと大きく鳴った。

キルアはゆっくり窓辺へ近づいた。
驚かせないように手を伸ばすと、鳩は少しだけ羽を震わせたが、逃げはしなかった。
足に結ばれた紐をほどき、封筒を外す。
紙は夜気を吸って少しひんやりしていた。

鳩は役目を終えたみたいに、小さく喉を鳴らしてから、ひらりと夜の方へ飛んでいく。

残された封筒を、キルアはしばらく見下ろしていた。

触れるのが怖かった。
中に何が書いてあるのか分からない。
もし、戻らないと書いてあったら。
もし、距離を置きたいと書いてあったら。

そんな最悪ばかりが先に浮かぶ。

けれど、見ないままでいられるはずもなかった。

キルアはそっと封を開いた。
きちんと閉じられていないのは、急いで書いたからかもしれないと思うと、胸の奥がまた痛んだ。
中の便箋を取り出し、折り目をひらく。
紙の擦れる音が、やけに大きく聞こえた。

そこに並んでいたのは、やっぱりナマエの字だった。
やわらかくて、少しだけ慎重な、見慣れた文字。

――キルアへ
――さっきは、ちゃんと話せないまま出てきてしまってごめんね。

最初の一行を読んだだけで、喉の奥が詰まった。

――怒ってるわけじゃないの。
――でも、少しかなしくて、あのままだとうまく笑えなかった。

――キルアが心配してくれるの、ほんとはちゃんとわかってる。
――わたし、それがいやなんじゃないよ。うれしいし、何度も助けられてきたし、キルアがそばにいてくれると安心する。

――でもね。
――信じるって言ってくれたことも、わたしはすごくうれしかったの。
――だから今日は、少しだけ苦しくなってしまった。

――ごめんね。

ここで一度、キルアは目を閉じた。
便箋を持つ指先に力が入りそうになって、慌てて少し緩める。
しわをつけたくなかった。
この文字を、乱したくなかった。

もう一度、続きを読む。

――わたし、キルアのこと大好きだよ。

その一文が、まっすぐ胸に落ちてきた。

何の飾りもない。
言い訳も、遠回しな表現もない。
ただそれだけが書かれている。
それなのに、どうしてこんなに苦しいのか分からなかった。

――一人で歩けることと、キルアの隣にいたいことは、わたしの中では別なの。
――一人でできることがあっても、キルアに甘えたい気持ちはなくならないよ。
――むしろ、キルアだから甘えたいって思う。

――だから、ちゃんと帰るね。
――待っていてくれたら、うれしい。

最後に、小さく名前が書かれていた。

――ナマエ

読み終えたあともしばらく、キルアはその場から動けなかった。

便箋の白さが、薄暗くなった部屋の中でぼんやり浮いて見える。
文字はもう全部読んだはずなのに、目がそこから離れない。
何度も何度も、同じ行をなぞるみたいに見てしまう。

大好きだよ。
ちゃんと帰るね。
待っていてくれたら、うれしい。

その言葉が、胸の奥のいちばん深いところに、静かに沈んでいく。
沈んで、それから遅れて熱を持つ。

「……ばか」

掠れた声が、ぽつりと落ちた。

責める響きではなかった。
困ってしまうくらい、やさしい字でこんなことを書くから。
こんなふうに、ちゃんと戻ると伝えてくるから。
自分がどれだけ未熟だったか、余計に思い知らされる。

キルアは便箋を持ったまま、ゆっくりその場に座り込んだ。
背中を机の脚に預けて、片手で目元を覆う。

熱い。
喉の奥も、目の奥も、胸の奥も、全部少しずつ熱い。
泣くほどじゃないと思った。
でも、うまく息ができなかった。

ナマエは、帰ると言った。
自分が信じきれなかったその言葉を、今度は文字にして届けてきた。
逃げるためじゃなくて、ちゃんと戻るために。
自分を不安にさせるためじゃなくて、安心させるために。

それが分かってしまって、どうしようもなく胸が痛んだ。

待っていてくれたら、うれしい。

その一文が、何よりも効いた。

追いかけて捕まえるんじゃなくていい。
閉じ込めなくていい。
ただ、待っていてほしいと、あいつは言った。

それはたぶん、キルアにとって今までいちばん難しいことだった。
怖いまま、見えない時間を受け入れて、帰ってくる相手を待つこと。
でも同時に、いちばんほしかった許し方でもあった。

キルアは便箋を胸元に引き寄せた。
紙越しに伝わるぬくもりなんてあるはずないのに、そこにナマエの手の気配が残っている気がした。

その時。

玄関の方で、かすかに音がした。

鍵の触れ合う、小さな金属音。
続いて、扉の向こうに人の気配。

キルアの心臓が、また大きく跳ねた。

息を止める。
立ち上がろうとして、うまく足に力が入らない。
便箋を握りしめそうになって、慌てて持ち直す。

扉の向こうで、ほんの少しだけためらうような間があった。

それから、静かに、扉が開く音がした。







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