03
扉が、ゆっくりと開く。
夜の潮風が、ひやりと玄関から流れ込んできた。
その向こうに立っていたナマエは、出ていった時と同じ服のままなのに、少しだけ違って見えた。
頬に夜気を含んだみたいな淡い赤みがあって、手には小さな紙袋を提げている。
けれど、いちばん目を引いたのはその表情だった。
不安そうで、でも逃げずにここへ戻ってきた顔。
ナマエは扉を閉める前に、そっとキルアの方を見た。視線が合う。
その瞬間、キルアの胸の奥で何かが大きく揺れた。
「……ただいま」
小さな声だった。
いつもより少しだけ慎重で、でもちゃんと帰ってきた人の声だった。
キルアはすぐに返事ができなかった。
喉の奥が詰まって、うまく音にならない。
手の中にはまだ便箋がある。
さっきまで文字だった“帰る”が、今、目の前で本当になっている。
そのことに身体が追いつかない。
ナマエが、ほんの少しだけ不安そうに目を伏せる。
その気配に、キルアははっとして、ようやく掠れた声を押し出した。
「……おかえり」
たったそれだけなのに、声が少し震えた。
ナマエはその震えに気づいたみたいに、目を瞬いた。
それから、キルアの手元にある便箋を見つける。
自分の字。自分の名前。
読んだのだと分かって、ナマエの睫毛がわずかに揺れた。
玄関先に、短い沈黙が落ちる。
キルアは立ち上がった。
勢いよくではなく、確かめるみたいにゆっくりと。 便箋を持ったまま、一歩、また一歩とナマエに近づく。
ナマエは逃げなかった。
ただその場で、少しだけ緊張したように指先を揃えて立っている。
近くまで来て、キルアは足を止めた。
手を伸ばしたい。
抱きしめたい。
でもそれをしていいのか、まだ分からない。
さっき自分が傷つけたばかりなのに、勝手に触れていいのか分からなくて、指先だけが宙で迷う。
その迷いを見たみたいに、ナマエがほんの少しだけ前へ出た。
その一歩で、キルアの中の何かが切れたみたいだった。
次の瞬間には、キルアはナマエを抱きしめていた。
強すぎないようにと思った。
閉じ込めるみたいにならないようにと思った。
なのに、腕に入る力を完全には殺せなかった。
失っていなかったことへの安堵が、どうしても指先に滲む。
ナマエの身体が、腕の中で小さく揺れる。
けれど拒まれなかった。
むしろ少し遅れて、ナマエの手もそっとキルアの服を掴んだ。
その感触に、キルアは目を閉じる。
ああ、帰ってきたのだと思った。
ちゃんと、自分の足で出ていって。
それでもちゃんと、ここへ戻ってきたのだと。
「……ごめん」
ナマエの肩口に額を寄せたまま、キルアは掠れた声で言った。
「オレ、また……」
言葉が続かない。
喉の奥が熱くて、うまく息が回らない。
ナマエは何も急かさなかった。
ただ静かに、キルアの背中に手を添えている。
そのやさしさが、余計に苦しかった。
「信じたいのに」
やっとのことで、キルアは言った。
「ほんとはちゃんと信じたいのに……怖くなると、うまくできねー」
「……うん」
「お前のこと、見えてるつもりだった」
声が少しだけ震える。
「でも、全然だめだった。オレ、自分の怖い方ばっか見てた」
ナマエの指先が、背中で小さく動いた。
慰めるみたいに、ゆっくりと一度だけ撫でる。
「キルア」
呼ばれて、キルアは少しだけ顔を上げた。
近い距離で見たナマエの目は、まだ少し赤かった。
たぶん泣いたわけじゃない。
でも、泣きそうだった時間があったのだと分かる赤さだった。
そのことに胸が痛む。
「わたしも、ごめんね」
ナマエは小さく言った。
「飛び出すみたいになっちゃって」
「……それは」
「ちゃんと話したかったのに、あのままだとうまく言えなかった」
キルアは首を振る。
違う、と言いたかった。
悪いのは自分だと。
でもナマエは、その首振りごと受け止めるみたいに、やわらかく続けた。
「でも、帰るつもりだったよ」
「……うん」
「ちゃんと、帰ってくるつもりで出たの」
「……うん」
「手紙読んでくれた?」
「読んだ」
短く答えた声が、思ったよりずっと掠れていて、自分でも少し驚く。
ナマエはその声を聞いて、ほんの少しだけ困ったように笑った。
「ほんとは、ちゃんと顔見て渡したかったんだけど」
「……あれ、反則」
「え」
「大好きとか、ああいうの、文字で先に読むの、ずるい」
ナマエが目を丸くする。
それから、ふっと小さく笑った。
泣きそうな空気の中でこぼれたその笑みが、あまりにもいつものナマエで、キルアの胸がまた熱くなる。
「ずるくないよ」
「ずるい」
「ほんとのことだもん」
「……そういうとこ」
言いながら、キルアはもう一度ナマエを抱き寄せた。
今度はさっきより少しだけやわらかく。
確かめるというより、受け取るみたいに。
ナマエも今度は自然にその胸に寄りかかる。
その重みが、ひどく愛しかった。
しばらくそうしてから、ナマエがキルアの服をつまんだまま、小さく言った。
「わたしね」
「うん」
「一人で歩けるようになりたいのはほんとだよ」
「……うん」
「でも、それと、キルアの隣にいたいのは別なの」
キルアは黙って聞く。
ナマエの声は静かで、でもちゃんとまっすぐだった。
「一人でできることがあっても、キルアに甘えたい気持ちはなくならない」
「……」
「むしろ、キルアだから甘えたい」
「ナマエ……」
「だから、わたしが一人で出かけたい時も、キルアがいらないわけじゃないよ」
その言葉は、手紙で読んだ時よりもずっと深く響いた。
文字で見た時も苦しかった。
でも声で聞くと、もっとだめだった。
キルアは目を伏せる。
視界の端で、便箋の白がまだ指のあいだに見えている。
「……オレさ」
ぽつりとこぼす。
「お前のこと、守りたいってずっと思ってた」
「うん」
「でも今日、なんか……守るっていうより、ただオレが安心したいだけみたいで」
「……」
「それがすげー嫌だった」
ナマエは少しだけ黙って、それからそっとキルアの手に触れた。
便箋を持っていない方の手。
その指先を、やさしく包む。
「安心したいって思うの、だめじゃないよ」
「でも」
「だって大事なんだもん」
キルアは息を止めた。ナマエは続ける。
「ただその安心のために、わたしの足を止められたらかなしい」
「……うん」
「でも、怖いって言ってくれるのは、いやじゃないよ」
「え」
「わたし、キルアが平気なふりする方がたぶんかなしい」
キルアは目を瞬いた。
そんなふうに言われると思っていなかった。
ナマエは少し照れたみたいに視線を揺らしながら、それでもちゃんと言葉を続ける。
「だから、次は」
「……うん」
「だめって止める前に、怖いって言ってほしい」
「……」
「そしたらわたしもちゃんと話す」
「……うん」
「どこに行くかも、何時に戻るかも、ちゃんと言う」
「……うん」
「……それで、キルアが待っててくれたらうれしい」
最後の一言が、手紙と同じ響きで落ちる。
待っていてくれたら、うれしい。
キルアはその言葉に、どうしようもなく弱かった。
胸の奥のいちばん柔らかいところを、そっと撫でられるみたいに痛い。
「……待つの下手かもしんねー」
正直に言うと、ナマエは少しだけ笑った。
「知ってる」
「ひでーな」
「ふふ」
「……でも」
キルアは一度息を吸って、ナマエの目を見た。
逃げずに、ちゃんと。
「……やる」
「うん」
「怖くても、ちゃんと待つ」
ナマエの目が、やわらかく細められる。
その表情だけで、少し救われる気がした。
「じゃあ、わたしもちゃんと帰ってくるね」
「……うん」
「何回でも」
その言葉に、キルアはもうだめだった。
笑うみたいに、泣くみたいに、ぐしゃりと顔を歪める。
でも涙は落ちなかった。
代わりに、ナマエの肩へ額を押しつける。
「……好き」
掠れた声で、ほとんど息みたいにこぼれる。
ナマエがぴくりと揺れた。
「うん」
「すげー好き」
「うん」
「だから、ほんと、こわい」
ナマエは何も笑わなかった。
茶化しもしなかった。
ただ、抱きしめ返す腕に少しだけ力を込める。
「わたしも大好き」
その返事は、あまりにもまっすぐで、あたたかかった。
しばらく二人はそのまま玄関で抱き合っていた。
夜の潮風が、扉の隙間からかすかに入り込む。
遠くで波の音がする。
世界は静かに夜へ向かっているのに、二人のあいだだけは、遅れてほどけていく熱で満ちていた。
やがて、ナマエが少しだけ身体を離した。
まだ近い距離のまま、手に持っていた小さな紙袋を持ち上げる。
「……あのね」
「ん」
「これ、ほんとはそのために行ってたの」
キルアが目を落とす。
紙袋は小さくて、丁寧に口が折られている。
「何」
「開けてみて」
受け取ると、中には小さな便箋の束と、青いインクの入った細いペン、それから封筒が入っていた。
どれも素朴だけれど、やわらかい色合いで揃えられている。
キルアは目を瞬いた。ナマエが少しだけ恥ずかしそうに笑う。
「ちゃんと言葉にして伝えられるようにって思って」
「……え」
「キルア、口だとうまく言えない時あるでしょ」
「……ある」
「わたしもある」
「……うん」
「だから、次にもしまたうまく話せなくなった時のために」
ナマエは少しだけ視線を伏せて、それからまた見上げた。
「手紙、書けるようにしたかったの」
キルアはしばらく何も言えなかった。
胸の奥が、またじわりと熱くなる。
喧嘩して、傷ついて、それでも彼女は、次にちゃんと伝えるためのものを選んで帰ってきたのだ。
離れるためじゃなくて。
これから先も、何度でも戻ってこられるように。
キルアは紙袋を持ったまま、ゆっくり息を吐いた。 今度は少しだけ、ちゃんと吐けた気がした。
「……ほんとずるい」
「また?」
「うん」
「なんで?」
「そんなの、うれしいに決まってんだろ」
ナマエがくすぐったそうに笑う。
その笑顔を見た瞬間、キルアはようやく、自分の中の強ばりが少しだけほどけていくのを感じた。
信じることは、たぶんまだ簡単じゃない。
これから先もきっと、怖くなる夜はある。
手を離すのが下手な日もある。
うまく待てない日だって、たぶんある。
それでも。
怖いままでも、待つと決めること。
傷ついたあとでも、帰ると決めること。
その繰り返しでしか、二人のあいだの信頼は育たないのだと、今は少しだけ分かる気がした。
ナマエがそっとキルアの手に触れる。
便箋を持っていたその手を、今度はやさしく包み込む。
「中入ろ」
小さく言われて、キルアは頷いた。
「……ああ」
その声はまだ少し掠れていたけれど、さっきまでとは違っていた。
ナマエは扉をきちんと閉める。
夜の風が遮られて、家の中にまた二人分のぬくもりが戻る。
並んで歩き出す。
今度はどちらも、相手の歩幅をちゃんと知っているみたいに、自然に隣へ並べた。
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