01
少しの緊張感が漂う部屋の空気だった。
テーブルの上には、飲みかけの紅茶と、読みかけの雑誌が開いたまま置かれている。
外はよく晴れていて、風も強くない。
少し歩くにはちょうどいい日だった。
ナマエは小さな鞄の紐を指先で整えながら、玄関の前で靴を履いていた。
「ほんとに近くだけだからね」
振り返ってそう言うと、後ろに立っていたキルアが短く息をつく。
「分かってる」
返事はいつもどおりぶっきらぼうだったけれど、その声色には、分かっているだけでは済まないものが少しだけ滲んでいた。
ナマエはそれに気づかないふりをして、小さく笑う。
「すぐ戻るよ」
「……ん」
キルアは壁にもたれたまま、腕を組んでいる。
止める気はないらしい。
けれど、完全に気楽そうにも見えなかった。
視線だけが、ナマエの鞄や靴や、玄関の鍵に落ち着きなく触れている。
以前言えなかった「行ってらっしゃい」を気にしている。
だからこそ、今日は何も言わないのだろうとナマエは思った。
心配していないわけではない。
ただ、その心配を理由に、自分の行き先を狭めたくないのだと、キルアは葛藤しているのだ。
ナマエは靴紐を結び終えて、立ち上がった。
「じゃあ、行ってくるね」
その言葉に、キルアの目が一瞬だけ揺れる。
ほんのわずかな間があった。
何か言いたそうに唇が動いて、でも結局、口にしたのは別の言葉だった。
「……気をつけろよ」
ナマエはうれしくなって、素直に頷く。
「うん。ちゃんと帰ってくるね」
そう言って笑うと、キルアは少しだけ眉を寄せたまま、「分かってる」と小さく返した。
扉が開いて、外の光が差し込む。
「行ってらっしゃい」と呟くような声が聞こえたから、ナマエは一度だけ振り返って、玄関を出た。
扉が閉まる音がして、部屋の中に静けさが戻る。
キルアはしばらく、その場から動かなかった。
さっきまでナマエが立っていた場所を見つめたまま、腕を組んでいた力をゆっくり緩める。
行ってくる、と笑った顔が、まだ目の前に残っていた。
まずは送り出せたことにほっと一息つく。
だけど、問題はここからだった。
近所へ少し出かけるだけだ。
危ない場所に行くわけじゃない。
時間だって長くはならない。
頭では分かっている。
分かっているのに、胸の奥は少しも落ち着かなかった。
キルアは小さく舌打ちして、ソファに座る。
テーブルの上の雑誌を手に取ってみるが、ページをめくっても内容が頭に入ってこない。
数行読んだだけで閉じてしまい、今度は紅茶に手を伸ばす。
けれど、ひと口飲んだところで、もうぬるくなっていることに気づいた。
部屋が静かすぎた。
いつもなら、紙をめくる音や、何かを探す小さな物音や、ナマエの控えめな足音がどこかにある。
その気配がないだけで、部屋の広さが少し変わってしまったみたいだった。
キルアは立ち上がって、窓の外を見る。
通りには午後の光が落ちていて、買い物帰りらしい人や、ゆっくり歩く親子の姿が見える。
その中にナマエの姿はまだない。
当たり前だ、と自分に言い聞かせても、視線はなかなか窓から離れなかった。
時計を見る。
まだ、出てからそんなに経っていない。
キルアは窓辺から離れて、今度はキッチンへ向かった。
何かしていたほうがましだと思ったのだ。
使ったままになっていたカップを洗い、布巾で拭いて、棚に戻す。
そこまでやっても、落ち着かない。
また時計を見る。
まだ早い。
分かっている。
分かっているのに、足が勝手に玄関のほうへ向きかける。
迎えに行く理由はいくらでも作れた。
忘れ物を届けるとか、たまたま同じ方向に用があるとか、そんな適当な口実ならいくらでも思いつく。
実際には、ただ顔を見て安心したいだけだとしても。
ただ、それを“心配だから”って顔で包んでしまえば、前と同じになる気がした。
キルアは玄関の前で立ち止まった。
手を伸ばせば、すぐに扉は開く。
そのまま外へ出てしまえば、たぶんすぐ見つけられる。
近所なのだから、そう遠くへは行っていないはずだ。
指先が、ほんの少しだけ扉に触れかける。
けれど、そのまま押すことはできなかった。
ナマエは、自分で行って、自分で帰ってくると言ったのだ。
その言葉を、今度はちゃんと受け取りたかった。
自分が安心したいからって、勝手に迎えに行って、帰ってくる途中まで奪うみたいなことはしたくなかった。
キルアは扉に触れかけた手を、ゆっくり下ろす。
胸の奥はまだざわついている。
心配が消えたわけではない。
むしろ、じっとしているぶんだけ、余計に不安は輪郭を持ってくる。
それでも、ここで迎えに行くのは違う。
守るためと都合のいい言葉を盾にして先回りして全部を囲うことを、選びたくなかった。
キルアは小さく息を吐いて、扉から離れた。
ソファに戻っても落ち着かず、また窓辺へ行って、すぐに引き返す。
そんなことを何度か繰り返したあと、ようやく自分でも少し呆れて、低く呟いた。
「……待つの、やっぱ向いてねーな」
誰に聞かせるでもない声だった。
それでも、その言葉を口にしたことで、少しだけ肩の力が抜ける。
向いていなくても、今は待つしかないのだと、ようやく腹をくくれた気がした。
外では風がやわらかく木の葉を揺らしている。
キルアは窓の外を見ながら、ふとこの前の言葉を思い出した。
――ちゃんと帰るね。
――待ってくれていたら嬉しい。
手紙に書かれたあの一言が、胸の奥で静かに響く。
帰ってくる場所。
ここをそう思ってくれているなら、今は迎えに行くより、戻ってこられる場所でいたい。
キルアは窓辺から離れて、ソファの背にもたれた。
視線は自然と玄関のほうへ向いてしまうけれど、もう扉を開けようとはしなかった。
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