02
しばらくして、外から足音が近づいてくる。
軽すぎず、急ぎすぎず、聞き慣れた歩幅だった。
キルアの身体が、反射みたいにわずかに起き上がる。
次の瞬間、玄関の向こうで小さく鍵の音がした。
扉が開く。
「ただいまー!」
やわらかい声と一緒に、午後の外気がふわりと流れ込んできた。
ナマエが立っていた。
頬を少しだけ赤くして、手には小さな紙袋を提げている。
出ていったときと同じ鞄を肩にかけたまま、ちゃんと笑っていた。
その姿を見た瞬間、キルアの胸の奥で張りつめていたものが、音もなくほどけた。
帰ってきた。
ちゃんと、自分で出ていって、それでも戻ってきた。
その当たり前のことが、どうしようもなくうれしかった。
けれど、それをそのまま顔に出すのは悔しくて、キルアは立ち上がりながら、なるべくいつもどおりの声を作った。
「……おかえり」
少しだけ掠れた声になったのは、自分でも分かった。
ナマエは靴を脱ぎながら、うれしそうに目を細める。
「ちゃんと帰ってきたよ」
その言い方が、まるで褒めてほしいみたいで、キルアは思わず小さく笑ってしまう。
「見りゃ分かる」
「ふふ」
ナマエはそう笑ってから、手に持っていた紙袋を少し持ち上げた。
「帰りにね、小さい焼き菓子のお店に寄ったの。今度一緒に行けそうか見てみたくて」
キルアはその袋を見る。
たぶん本当に、ただ少し出かけて、少し見て、ちゃんと帰ってきたのだ。
それだけのことなのに、胸の奥に残る安堵は思っていたよりずっと大きかった。
ナマエは玄関から上がってきて、キルアの前で足を止める。
「待っててくれた?」
何気ない問いだった。
けれど、その声は少しだけやわらかくて、どこか期待しているみたいでもあった。
キルアは一瞬だけ返事に詰まる。
窓の外を何度も見たことも、玄関まで行きかけたことも、落ち着かなくて部屋の中をうろうろしていたことも、そんなことは全部、自分だけが知っていればいい。
だからキルアは、少しだけ視線を逸らしてから、短く答えた。
「……まあ」
迎えに行きかけたことまでは、言わなかった。
ナマエはその曖昧な返事に、なぜかひどくうれしそうに笑った。
「そっか」
それだけ言って、安心したみたいに肩の力を抜く。
その顔があんまりやわらかくて、キルアの胸の奥がまた少し熱くなる。
待っていたのは自分だけではなかったのかもしれない。
ナマエもまた、帰ったときにここが変わらずあることを、どこかで確かめていたのだろうか。
そう思うと、胸の奥に残っていたざわつきが、少しだけ別の形に変わる。
待つことは、何もしないことではない。
ただ手を出さずに放っておくことでもない。
帰ってきたときに、ちゃんと「おかえり」と言える場所でいること。
相手が自分の足で戻ってくるのを、怖くても信じてみること。
それもきっと、守ることのひとつなのだ。
キルアは紙袋を受け取りながら、ほんの少しだけ目を細めた。
「……次は、もうちょい遅くなるなら先に言えよ」
ぶっきらぼうに言うと、ナマエはすぐに「うん」と頷く。
「でも、迎えには来なかったね」
その言葉に、キルアは一瞬だけ目を瞬かせた。
見透かされたような気がして、少しだけ眉を寄せる。
「来てほしかった?」
そう返すと、ナマエは首を横に振った。
「ううん。待っててくれたの、うれしかった」
まっすぐな声だった。
キルアは何も言えなくなる。
胸の奥が、また少しだけ熱くなる。
迎えに行かなかったことが、本当に間違いじゃなかったのだと、その一言でようやく思えた。
ナマエはそんなキルアを見て、やわらかく笑う。
それから、ほんの少しだけためらって、そっとキルアの服の裾をつまんだ。
「ただいま」
今度はさっきより少しだけゆっくり、確かめるみたいに言った。
その仕草があまりにも素直で、キルアは一瞬だけ目を見開く。
次の瞬間には、紙袋を持っていない方の手が自然にナマエの後頭部へ伸びていた。
くしゃりと撫でる、というより、引き寄せるみたいにやわらかく触れる。
ナマエの身体が、ためらいなく一歩ぶん近づく。
「……おかえり」
さっきよりも少しだけやわらかい声だった。
ナマエはそのまま、キルアの胸元に額が触れそうなくらいの距離で立ち止まる。
紙袋を持っていない方の手が、遠慮がちにキルアの服をつまむ。
キルアはほんの一瞬だけ迷ってから、その肩をそっと抱き寄せた。
強く囲うのではなく、戻ってきたぬくもりを確かめるみたいに。
ナマエも抵抗せず、むしろ安心したみたいに力を抜いて、キルアの胸元へ体重を預ける。
その軽さに、キルアは胸の奥がじわりと熱くなるのを感じた。
待っていた時間の落ち着かなさも、何度も窓の外を見たことも、今はもうどうでもよかった。
こうしてちゃんと戻ってきて、触れられる距離にいる。
それだけで十分だった。
「……ちゃんと帰ってきたな」
ぽつりと落ちた声は、半分は確認で、半分は安堵だった。
ナマエは胸元に寄りかかったまま、小さく笑う。
「言ったでしょ」
「……うん」
「ちゃんと帰ってくるって」
「分かってる」
そう言いながら、キルアの腕はほんの少しだけ抱く力を深くする。
ナマエは何も言わず、そのままおとなしく包まれていた。
しばらくして、ナマエがそっと顔を上げる。
近すぎるくらい近い距離で目が合って、どちらもすぐには逸らせなかった。
キルアの指先が、後頭部から髪を梳くみたいにゆっくり滑る。
ナマエはくすぐったそうに目を細めて、それでも離れようとはしない。
「……なに?」
小さく笑いながら聞くと、キルアは少しだけ眉を寄せた。
「別に」
「うそだ」
「うるせー」
ぶっきらぼうに返しながらも、腕は解かれない。
むしろ、逃がさないというより、離したくないみたいに、自然と腰のあたりへ回っていく。
ナマエはその気配に頬を少し赤くして、でも嫌がることなく、そっとキルアの胸元に手を添えた。
「……待ってるあいだ、さみしかった?」
「は?」
「ちょっとだけ?」
「……言わねー」
「さみしかったんだ」
「ナマエ」
名前を呼ぶ声が少し低くなる。
けれど本気で咎める響きではなくて、ナマエはうれしそうに笑った。
その笑顔を見た瞬間、キルアは観念したみたいに小さく息をつく。
それから、額をこつんとナマエの額に寄せた。
「……少しだけな」
掠れた声が、近すぎる距離で落ちる。
ナマエの目が丸くなって、それからふわっとやわらかくほどけた。
うれしそうに笑って、今度は自分から少しだけ抱きつくみたいに距離を詰める。
「わたしも」
「……ん」
「帰ってきて、キルアがいてくれて、ほっとした」
その言葉に、キルアは何も返せなかった。
ただ、抱く腕にこもる力だけが、少しだけ深くなる。
額を寄せたまま、どちらもすぐには動かなかった。
近い。
息が触れそうなくらい近いのに、離れる理由も見つからない。
ナマエがほんの少しだけ視線を落として、それからまたキルアを見る。
その仕草だけで、胸の奥が妙にざわつく。
キルアの指先が、髪を撫でる動きの延長みたいに、こめかみのあたりをかすめた。
触れるか触れないかのやわらかい距離に、ナマエの睫毛が小さく揺れる。
「……キルア」
呼ぶ声が、さっきまでよりずっと小さい。
「ん」
「近いよ」
「お前が来たんだろ」
「そうだけど」
くす、と笑った声が、ほとんど息みたいにほどける。
その笑い方があんまり無防備で、キルアは思わず目を細めた。
離したくない、と思う。
でも、怖がらせたくはない。
そのふたつの気持ちのあいだで、指先だけが少し迷う。
するとナマエが、安心させるみたいにキルアの服を握る手に少しだけ力を込めた。
それだけで十分だった。
キルアは額を寄せたまま、ほんの少しだけ顔を傾ける。
ナマエも逃げなかった。
睫毛が伏せられて、呼吸が浅くなる。
触れたのは、ほんの一瞬だった。
確かめるみたいに、やわらかく、軽く。
あまりにも短いキスだったのに、触れた場所だけが熱を持ったみたいに残る。
離れたあとも、どちらもすぐには動かなかった。
ナマエがゆっくり目を開ける。
頬がさっきよりも赤くなっていて、その顔を見た瞬間、キルアの胸の奥がまた熱くなる。
「……ただいま」
今度の声は、少しだけ照れたみたいに小さかった。
キルアは一瞬だけ目を逸らして、それからまたナマエを見る。
耳のあたりまで少し熱くなっている自覚があって、余計にぶっきらぼうな声になる。
「……おかえり」
けれど、腰に回した腕は解かなかった。
むしろ、もう一度逃がさないようにではなく、ここにいていいと伝えるみたいに、そっと抱き寄せる。
ナマエはくすぐったそうに笑って、そのままキルアの肩口に頬を寄せた。
キルアもその髪に頬を寄せる。
外へ出て、また戻ってくること。
待って、迎えること。
その往復を、二人はまだ少しずつ覚えている途中だった。
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