03



玄関先で寄り添っていた熱が、すぐにはほどけなかった。

ナマエはキルアの肩口に頬を寄せたまま、小さく息をつく。
外の空気をまとっていた身体が、少しずつ家のぬくもりに馴染んでいくのが分かる。
キルアの腕はまだ腰のあたりに回ったままで、離すつもりがあるのかないのか、自分でも決めかねているみたいだった。

さっき交わしたキスの気配が、まだ近い距離のあいだに残っている。
照れくさいのに、離れるのも惜しい。
そんな半端な沈黙が、かえって心地よかった。

「……入るぞ」

先にそう言ったのはキルアだった。
ぶっきらぼうな声だったけれど、ナマエを抱く腕は最後にもう一度だけ名残を惜しむみたいにやわらかく力を込めてから、ようやく離れる。

「うん」

ナマエは小さく頷いて、くすぐったそうに笑った。

二人でリビングへ戻る。
ナマエは買ってきた紙袋をテーブルの上に置いて、小さく息をついた。
外を歩いてきたせいで頬は少しだけあたたかく、指先にはまだ、店先で触れた布や紙の感触が残っていた。

「思ったより買ったな」

後ろからの声に、ナマエは振り返る。
ソファの背にもたれながら、キルアはテーブルの上の紙袋や小箱を見ていた。
呆れたような口ぶりだったけれど、目元は少しだけやわらかい。

「そんなに買ってないよ」

ナマエがそう返すと、キルアはふっと鼻で笑った。

「それ、両手ふさがってたやつの台詞じゃねーだろ」

言われて、ナマエは自分の手元を見下ろした。
たしかに帰ってきた時、片手には小さな箱、もう片方には包み紙の入った袋を提げていた。
自分でも少しおかしくなって、控えめに笑う。

「……でも、楽しかった」

その一言に、キルアは短く「ならよかった」と返した。
ぶっきらぼうな言い方だったけれど、ナマエにはそれで十分だった。

楽しかったことを、そのまま受け取ってもらえるだけで、胸の奥が少しあたたかくなる。

ナマエは袋の中身をひとつずつ取り出しながら、今日立ち寄った店のことをぽつぽつ話した。
通りがかりに見つけた焼き菓子の店、並んでいた淡い色のハンカチ、少し迷って結局買わなかった髪飾りのこと。
キルアは途中で相槌を打つくらいで、特別たくさん喋るわけではない。
それでも、ちゃんと聞いているのが分かる返し方をするから、ナマエは安心して言葉を続けられた。

「今度は、あっちの通りも見てみたいな」

包みを整えながらそう言うと、キルアが「ふーん」と気のない返事をする。

「また行くのかよ」
「だめ?」

ナマエが顔を上げると、キルアは一瞬だけ言葉に詰まったように目を逸らした。

「だめとは言ってねーけど」

その返しが少しだけ早すぎて、ナマエはなんとなく可笑しくなる。
心配してくれているのが分かる。
けれど、それ以上何も言わなかった。
行くなとも、一人は危ないとも、ついていくとも言わない。
ただ、テーブルの上に広がった買い物袋を見ながら、指先で紙袋の端を軽くつついている。
なんでもない顔をしているのに、自分の中の葛藤を飲み込もうとしているのが、こちらにまで伝わってくる。

ナマエはその横顔を見て、ふと笑みを深くした。

「大丈夫だよ」
「何が」
「ちゃんと帰ってくるってこと」

キルアの指先が止まる。

さっきまで外を歩いていて、いろんな店を見て、知らない景色の中に少しだけ胸を躍らせながら、それでもどこかでずっと思っていたのだ。

キルアが選び直してくれたこと。
見たいものがあって、行ってみたい場所があって、少しずつ一人でできることが増えていっても、最後に戻りたい場所は変わらないこと。

悩みながら見送ってくれた、その先にちゃんと帰りたいと思えるのは、キルアのいるこの家だけなのだと。

ナマエは包み紙の端を撫でながら、静かに続けた。

「どこへ行っても、帰ってくる場所はここだもん」

言ったあとで、少しだけ照れくさくなる。
あまりにも自然に口から出たせいで、自分で言っておきながら、急に落ち着かなくなった。

キルアは何も言わなかった。
ただ、ほんのわずかに目を見開いて、それからすぐにいつもの顔に戻る。
照れたのをごまかすみたいに、視線を逸らして、ソファの肘掛けを指で軽く叩いた。

「……何それ」

ぶっきらぼうな声だった。
ナマエは少しだけ困ったように笑う。

「変だった?」
「別に」

即答だった。
けれど、そのわりに耳の先が少し赤い。

ナマエはそれ以上追及しなかった。
たぶん今ここで何か言い足したら、キルアはもっと不機嫌そうな顔をする。
けれどそれは本当に機嫌が悪いわけではなくて、うまく受け止めきれないだけなのだと、もう分かるようになっていた。

だからナマエは、ただ小さく笑って、買ってきた焼き菓子の包みをひとつ持ち上げた。

「これ、一緒に食べようと思って買ってきたの。食べよ?」

キルアはまだ少しだけ視線を逸らしたまま、「……ん」と短く返す。
その返事だけで十分だった。

ナマエは包みを開ける。
中から出てきたのは、丸くて小さな焼き菓子だった。
表面にうっすら砂糖がかかっていて、バターの甘い匂いがふわりと広がる。

「これ、お店で焼きたてだったんだよ」

うれしそうに言いながら、ナマエはひとつ摘まんでキルアの方へ差し出した。

「はい」
「……子ども扱いすんな」
「してないよ」
「じゃあ何」
「一番に食べてほしかったの」

その言葉に、キルアは一瞬だけ黙る。
それから、少しだけ眉を寄せたまま、観念したみたいに口を開けた。
ナマエはくすっと笑って、そのまま焼き菓子を食べさせる。
キルアはもぐもぐと噛んでから、少しだけ目を細めた。

「……うまい」
「ほんと?」
「ん」

短い返事だったけれど、ちゃんと気に入ったのが分かる声だった。
ナマエはうれしくなって、自分でもひとつ口に入れる。

「おいしい!」

ほろっとほどける甘さに、自然と頬がゆるむ。
キルアはそんなナマエの顔を見て、さっきよりも少しだけ肩の力を抜いたみたいだった。

「そんな顔するほどかよ」
「するよ」
「大げさ」
「キルアもしてた」
「してねーよ」
「してたもん」

言い返すと、キルアは小さく鼻を鳴らす。
でも否定しきれない顔をしていて、ナマエはまた笑ってしまう。

テーブルの上には、買ってきた包みや小箱がまだ並んでいる。
その真ん中で、二人でひとつずつ焼き菓子をつまんでいるだけなのに、不思議なくらい満たされた気持ちになった。

もうひとつ包みを開けようとして、ナマエはふと手を止める。

「……ね、こっち座ってもいい?」

そう言いながら見る先は、キルアの隣のソファだった。
キルアは一瞬だけ目を瞬いて、それから何でもないみたいな顔で肩をすくめる。

「好きにすれば」
「うん」

ナマエは小さく笑って、包みを持ったまま隣に腰を下ろした。
最初は少しだけ間を空けて座る。
けれど、焼き菓子をひと口食べて、もうひと口食べているうちに、その距離がなんとなく惜しくなった。

そっと肩を寄せる。
触れるか触れないかくらいの軽い重みだったけれど、キルアは何も言わなかった。
それどころか、少しだけ身体の力を抜いて、寄せられたぶんをそのまま受け止める。
ナマエはそれがうれしくて、もう少しだけ寄りかかった。

「……重くない?」
「別に」
「ほんと?」
「知らね」

ぶっきらぼうな返事なのに、声は少しだけやわらかい。
ナマエは笑って、焼き菓子の包みを膝の上に置いた。

しばらくそうしていると、キルアの肩越しの体温がじんわり伝わってくる。
外を歩いていた時にはなかった安心が、ゆっくり身体の中に広がっていく。

キルアは何も言わないまま、ナマエが持っていた包みからもうひとつ焼き菓子を取った。
そのまま食べるのかと思ったら、半分に割って、小さい方をナマエの口元へ差し出す。

「ほら」
「……いいの?」
「半分な」
「ふふ、ありがとう」

ナマエは素直に口を開けて受け取る。
さっき自分がしたことを、そのまま返されたみたいで、胸の奥がくすぐったくなった。

「おいしい?」
「うん。さっきよりおいしいかも」
「気のせいだろ」
「気のせいじゃないよ」

そう言って笑うと、キルアは少しだけ呆れたみたいに息をつく。
でも、肩は離れなかった。

ナマエは包みを整えながら、窓の外に目を向ける。

外にはまだ知らない景色がたくさんある。
行ってみたい場所も、見てみたいものも、これからきっと増えていくのだろう。
その時に、不安がすぐに消えるわけではない。
それでも、帰る場所を思うと、不思議なくらい安心できた。

肩に触れる体温が、そのことを静かに教えてくれている気がした。



その夜、ナマエが先に眠ったあとも、キルアはしばらく起きていた。
部屋の灯りは落としてあって、窓の外から淡い月明かりだけが差し込んでいる。
寝息は静かで、規則正しい。

昼間たくさん歩いたせいか、ナマエは珍しく深く眠っていた。
キルアはベッドの端に腰かけたまま、暗がりの中でぼんやりと床を見ていた。

どこへ行っても、帰ってくる場所はここ。

昼間の声が、何度も頭の中で繰り返される。

あまりにも何気なく言うから、たぶん本人はそこまで深い意味で口にしたわけじゃないのかもしれない。
けれど、キルアの胸には妙に深く残った。

――帰ってくる場所。

その言葉を、心の中でそっとなぞる。

自分はずっと、守ることばかり考えていた。
危ない目に遭わせないこと、怖い思いをさせないこと、手の届くところに置いておくこと。
そうしていれば安心できると思っていたし、そうするしかないと思っていた。

でも、帰ってくる場所であることは、それとは少し違う。
閉じ込めることでも、離れないように縛ることでもない。
行って、見て、迷って、それでも戻ってこられる場所でいることだ。

何より、ナマエの言葉を裏切るようなことは、もうしたくなかった。

苦い気持ちが消えたわけではない。
追いかけたくなる衝動が、すぐに無くなったわけではない。
それでも、悩みながらも、ここで待つことに腹を括る。
たぶん、それを何度も繰り返していくしかないのだろう。

キルアは小さく息を吐いた。
隣で眠るナマエが、寝返りを打って、毛布の端を少しだけ掴む。
キルアはその手元を見て、ほんの少しだけ目を細める。
やわらかいその頬にそっと手を当てて、体温を感じる。

今では当たり前のように触れられる温度を、守りたい気持ちは変わらない。
けれど、それだけではダメなんだ。

――帰ってくる場所。

その響きを、もう一度だけ胸の中で繰り返す。
それはたぶん、思っていたよりずっと大事なことだった。







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