02



被験体名――ナマエ
能力名――心に咲く白百合(ピュア・リリィ)

空気が、止まった。

誰もすぐには口を開かなかった。

ゴンが息を呑む気配だけが、やけに近く聞こえる。
レオリオは何か言いかけて、結局飲み込んだ。
クラピカだけが静かにキルアを見ていたが、その視線も急かすものではなかった。

キルアは紙面から目を離せないまま、もう一度その文字を追った。

見間違いじゃない。
似た名前でも、偶然でもない。
ナマエ。あいつの名前だった。

喉の奥が、ひどく乾く。

「……続き、あるな」

声は思ったより平坦だった。
自分でも、感情がどこにあるのかわからない。
怒りなのか、嫌な予感なのか、それとももっと別の何かなのか。

クラピカが箱の中を改め、別のファイルを抜き出した。

「観察記録と運用報告が分かれているようだ。こちらは基礎データ、こちらは経過記録……映像媒体もある」

最後の一言に、レオリオが露骨に眉をひそめる。

「映像まで残してやがるのかよ」
「研究資料としては不自然ではない」

クラピカの声は冷静だったが、その冷静さの奥に硬いものが混じっていた。

「……見るの?」

ゴンの問いは、誰に向けたものというより、その場に落とされた確認だった。

キルアは答えず、クラピカの手から別のファイルを取った。

表紙をめくる。
整った活字が並んでいる。
日付、識別番号、観察者名、精神状態、出力変動、周辺対象への影響。
あまりにも事務的で、あまりにも冷たい。

最初の数ページは、能力の性質についての記述だった。

発動条件。
感情との連動。
同調範囲。
対象者に生じる精神変容。

だが、読み進めるうちに、書かれているものの質が変わっていく。

――恐怖刺激時、出力上昇傾向あり。
――孤立状態において同調性の増幅を確認。
――保護対象の提示後、剥奪時に情動反応が顕著。
――被験体は「助け」を求める感情が極端に強く、周辺対象に庇護欲・執着・排他性を誘発。

キルアの指先が、紙の端で止まった。

助けを求める感情。
庇護欲。執着。排他性。

文字にされると、それは能力の説明でしかない。
けれど、その一行一行の下にあるものが何なのか、想像できないほど馬鹿じゃなかった。

怖かった。
痛かった。
ひとりだった。
助けてほしかった。

その全部が、こいつらにとっては観察項目だった。

「……っ」

小さく息を吸ったのは、ゴンだった。
隣から覗き込んでいた視線が、途中で止まる。

レオリオが舌打ちする。

「人を何だと思ってやがる」

キルアは何も言わなかった。

次のページをめくる。

――長期運用に伴う生命活動の低下を確認。
――精神的負荷の蓄積により、被験体の情緒安定性は著しく損なわれる。
――なお、出力効率の観点から、恐怖・痛覚・孤立の三条件は継続的に維持することが望ましい。

その一文を読んだ瞬間、視界の奥がすっと冷えた。

継続的に維持することが望ましい。

まるで薬品の温度管理でも書いているみたいな文面だった。
そこにいるのが、生きた人間だという前提が最初から抜け落ちている。

キルアの手の中で、紙がわずかに鳴った。

「キルア」

ゴンが低く呼ぶ。
止めるでもなく、ただそこにいると伝えるような声だった。

キルアは返事をしないまま、さらにページを繰った。

運用記録。
観察記録より、もっと露骨だった。

――被験体に対し一定時間の隔離を実施。
――情緒不安定化を確認後、接触対象を投入。
――対象は被験体保護を優先し、指示系統を一時的に逸脱。
――有用性を確認。
――被験体の睡眠制限後、出力上昇。
――泣き声および救難希求の増加に伴い、周辺対象の精神汚染速度が加速。
――対象同士の排他行動も確認。

その先は、もう読まなくてもわかった。

どうやってあいつを追い詰めれば、より強く発動するか。
どうやって怯えさせれば、より深く他人を狂わせるか。
どうやって「助けて」を引き出せば、より都合よく使えるか。

全部、書いてある。

レオリオが低く吐き捨てた。

「最悪だな……」
「……ああ」

それだけ、キルアは返した。
短い声だった。
けれど、自分のものとは思えないほど冷えていた。

クラピカが箱の中の記録媒体をひとつ持ち上げる。
薄い、古い型の映像ディスクだった。
ラベルには管理番号と日付、それから簡潔な記載がある。

情動誘導試験記録。
被験体反応観察。

レオリオが顔をしかめる。

「やめといた方がいいんじゃねえか」
「……」
「文字だけで十分だろ。こんなもんまで見たら」
「見る」

遮るように言ったのは、キルアだった。

自分でも、どうしてそう言ったのかわからない。
見たくないに決まってる。
けれど、ここまで読んで、映像だけ見ないという選択肢はなかった。

知ったつもりでいた。
言葉で聞いて、断片を見て、彼女の慟哭を受け止め、理解したつもりになっていた。

けれど、つもりだけだった。
知ったつもりでいることは、もうしたくなかった。
知ったところで何も変えられないとしても、目を逸らしたくなかった。

クラピカは一瞬だけキルアを見たあと、無言で頷いた。

部屋の隅に残っていた再生端末へディスクを差し込む。
古い機械音が低く唸り、しばらくして、砂嵐混じりの映像が立ち上がった。

最初は、何が映っているのかわからなかった。

白っぽい部屋。固定された画角。無機質な壁。床に落ちる影。

数秒遅れて、その部屋の隅に小さくうずくまる人影が見えた。

キルアの喉が、ひどく詰まる。

細い肩。膝を抱え込む腕。
俯いたまま動かない、白い顔。

今よりずっと痩せて見えた。
髪も乱れていて、服は大きすぎるのか、身体の線が余計に頼りなく見える。

ナマエだった。

画面の中のナマエは、扉の開く音にびくりと肩を跳ねさせた。
その反応が、あまりにも速かった。
考えるより先に身体が怯えているみたいな、染みついた反射だった。

誰かが部屋に入ってくる。
映像には足元しか映らない。
白衣の裾。無機質な靴音。

呼びかける声は入っていない。
けれど、ナマエはその気配だけでさらに身を縮めた。

「……や、だ……」

掠れた声が、ノイズ混じりに拾われる。

キルアの指先がぴくりと震えた。

その声を、知っている。
今のナマエが、眠気に滲んだ声で名前を呼ぶ時と同じ喉だ。
安心した時に小さく息をつく時と、同じ声だ。

なのに、こんなふうに震えている。

画面の中で、誰かの手が伸びる。
触れられるより先に、ナマエは反射的に顔を庇った。

「こわい……やだ……」

小さい。
泣き叫ぶわけでもない。
ただ、もう何度も言ってきた言葉みたいに、擦り切れた声で零れる。

レオリオが息を呑む音がした。
ゴンは何も言わない。
クラピカも、ただ画面を見ている。

映像の中のナマエは、何かをされるたびに肩を震わせた。
詳細は映らない。
けれど、それで十分だった。
何が行われていたのか、想像できてしまう余白だけが、むしろ残酷だった。

場面が切り替わる。

今度は、同じ部屋にナマエひとり。
扉は閉じられ、しばらく何も起こらない。

最初はじっとしていたナマエが、やがてゆっくり顔を上げる。
怯えきった目で扉の方を見る。

誰も来ない。何も聞こえない。

その沈黙の中で、ナマエの唇がかすかに動いた。

「……たすけて」

あまりにも小さくて、聞き逃しそうな声だった。
けれど、その一言だけは、ひどく鮮明に耳に残った。

キルアの奥歯が、ぎり、と鳴る。

――助けて。
その言葉を、あいつはどんな気持ちで口にしたんだろう。
誰も来ないと知りながら、それでも言わずにいられなかったのか。
それとも、言えば誰かが来ると、まだ少しだけ信じていたのか。

どっちでも、最悪だった。

映像はそこで終わらなかった。

次の記録では、部屋に入ってきた男がナマエの前にしゃがみ込み、何かを囁く。
音声は不鮮明で聞き取れない。
だが、その直後、ナマエの表情が目に見えて揺らいだ。
怯えと、縋るような期待と、どうしようもない不安が一度に滲む。

画面の端で、別の人物が記録を読み上げる声が入る。

『被験体は安全を供給する個体に対し、顕著な情緒依存を示す傾向あり』

キルアの呼吸が止まる。

『対象側もまた、被験体の脆弱性に反応し、保護欲の増幅を確認。相互依存形成の可能性は高い』

無機質な声だった。
感情なんて一欠片もない、ただの報告。

『適切な管理者を設定した場合、被験体の情緒安定および出力制御に有用』

管理者。
その単語が、ひどく耳障りだった。

人を守ることも、寄り添うことも、安心させることも。
全部、こいつらにとっては“管理”の一部でしかない。

画面がまた切り替わる。

今度は記録の質が違った。
監視映像ではなく、遠巻きに撮られた観察映像。
盗み撮りをしているそれの中で、ナマエが誰かと向き合っている。
映像は粗く、顔までははっきり映らない。
けれど、相手の髪色だけは、ノイズの中でも妙に目についた。

銀色。

キルアの指が、ぴたりと止まる。

『逃走後、新規接触個体、銀髪の少年』

読み上げる声が続く。

『被験体の情緒沈静化を確認。接触後、混乱状態の緩和あり』

画面の中のナマエが、ぎこちなく、けれど確かにその少年の方へ身体を寄せる。
少年の方も、警戒を解かないまま、しかし離れない。

『少年側にも顕著な保護傾向を確認。継続観察価値あり』

その瞬間、キルアは端末の停止ボタンを叩いていた。

ぶつ、と音がして、画面が暗転する。

部屋の中に、機械の駆動音だけがしばらく残った。

誰も何も言わない。

キルアは端末に手をついたまま、俯いていた。
呼吸の仕方を、一瞬忘れたみたいだった。

――継続観察価値あり。

見られていた、と思った。
そして、ふざけるな、と思った。

あいつが怯えていたことも。
助けを求めていたことも。
ようやく誰かに縋れたことも。
それを受け止めた自分の気持ちまで。

全部、こいつらにとっては記録で、分析で、利用価値でしかなかった。

「……ふざけんな」

低く落ちた声は、自分でも驚くほど冷たかった。

レオリオが何か言いかける。
けれど、キルアはそれより先に、端末から手を離した。

「ふざけんな、こんなの」

喉が焼けるみたいに痛い。

大切なものが、勝手に他人にどす黒く塗りつぶされていくような。
汚い何かを、押し付けられるような。
ただそこにあったのは、不快という感情だけだった。







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