03
扉の前で、キルアはしばらく動かなかった。
手をかければ、それで終わることなのに。
いつも通り中に入って、いつも通り名前を呼ばれて、いつも通り隣に座るだけだ。
それだけのことが、今は妙に遠い。
地下施設の冷えた空気はもうまとわりついていないはずなのに、指先の奥にだけ、まだあの保管庫の温度が残っている気がした。
白い部屋。
膝を抱えた細い身体。
扉の向こうの足音に、びくりと跳ねた肩。
キルアは一度だけ目を閉じて、浅く息を吐いた。
考えるな、と自分に言い聞かせる。
ここにいるのは、映像の中のあいつじゃない。
そうして扉を開ける。
「……おかえり」
すぐに声がした。
部屋の奥、ソファから立ち上がったナマエが、こちらを見ていた。
その顔を見た瞬間、胸の奥に張りついていたものが少しだけ緩む。
けれど、楽になるより先に、別の痛みが差し込んだ。
今の声は、やわらかい。
怯えも、掠れもない。
ただ、帰ってきた相手を見つけて安心した声だった。
「……ただいま」
返事はした。
思ったより普通に出た気がしたが、ナマエは一瞬だけ首を傾げた。
「少し遅かったね」
責めるでもなく、ただ確認するみたいな言い方だった。
そのまま数歩近づいてきて、キルアの前で足を止める。
「でも、足音でわかった」
キルアの指先が、わずかに止まる。
「……足音?」
「うん。廊下の向こうで聞こえて、キルアだって思った」
ナマエはそう言って、少しだけ笑った。
「その音、好き。帰ってきたってわかるから、安心する」
その瞬間、頭の奥に、前触れもなく映像が差し込んだ。
白い部屋。閉じた扉。外から近づいてくる靴音。
それだけで強張る肩。身を縮める細い身体。
息が、浅くなる。
今、目の前にいるナマエは笑っている。
同じ足音に、安心すると言っている。
それなのに、キルアの中では、怯えていた方の姿が勝手に重なった。
「キルア?」
呼ばれて、はっとする。
「……ああ」
短く返すと、ナマエは少しだけ不思議そうな顔をしたが、それ以上は何も言わなかった。
ただ、いつもの癖みたいに、そっとキルアの袖口に触れる。
その指先の軽さに、また胸の奥がざわつく。
映像の中では、誰かの手が伸びるだけで、あいつは反射みたいに身を縮めていた。顔を庇って、肩を震わせていた。
今は違う。自分から触れてくる。
疑いもなく、ためらいもなく。
本当なら、それだけで十分だった。
嬉しいと思って、安心して、いつもみたいに頭を撫でればいいだけなのに、キルアの身体は一瞬だけ動きを失った。
ほんの一拍。それだけの間だった。
けれどナマエは、その小さな空白に気づいたらしかった。
指先がわずかに止まり、すぐに離れる。
「……疲れてる?」
静かな声だった。
キルアは遅れて首を振る。
「別に。ちょっと長引いただけ」
「そっか」
ナマエはそれ以上追及しなかった。
けれど、納得したわけでもないのだと、表情を見ればわかった。
部屋の空気を変えるみたいに、ナマエは小さく言う。
「お茶、まだあったかいと思う。飲む?」
「あー……うん」
返事をしながら、キルアは靴を脱いだ。
その動作ひとつにも、妙に意識が向く。
床を踏む音。扉が閉まる音。部屋の中に満ちる静けさ。
全部が、さっき見た映像と地続きみたいに思えてしまう自分に、内心で舌打ちしたくなる。
違うだろ、と思う。
ここはあんな場所じゃない。
目の前にいるのは、あの時のあいつじゃない。
わかっている。
わかっているのに、勝手に結びつく。
テーブルの上には、読みかけらしい雑誌と、半分ほど減った茶の入ったポットが置かれていた。
ナマエは自分の分を脇へ寄せ、もうひとつのカップをキルアの前に置く。
「少し冷めちゃってた」
「平気」
座ると、向かいではなく、いつも通り隣に腰を下ろしてくる。
その距離感に、また少しだけ息が詰まる。
近いことが嫌なわけじゃない。
むしろ、近くにいてほしい。
そう思う気持ちは何も変わっていない。
ただ、近くにいるナマエの横顔が、ふとした角度で映像の中の痩せた輪郭と重なる。
「あったかいの飲んでもらいたかったなあ」と少ししょんぼりしながらカップを両手で包む仕草が、膝を抱えていた細い腕を思い出させる。
キルアは視線を落とし、ぬるくなりかけた茶をひと口飲んだ。
「今日、何してた?」
なるべく普通の声で聞く。
ナマエは少しだけ目を丸くして、それから答えた。
「本、読んでた。あと、少しだけ外見てたかな?」
「外?」
「うん。雨降りそうだったから」
そう言って窓の方を見る。
つられてキルアもそちらへ視線を向けた。
空はもう暗くなりかけていて、確かに雲が低い。
「でも、降らなかったの。よかった」
「へえ」
「……キルア、ほんとに疲れてない?」
今度はさっきより少しだけ慎重な聞き方だった。
様子をうかがうみたいな、遠慮がちな声。
キルアはカップを置く。
「だから、別に」
言ってから、少し硬かったと気づく。
ナマエの肩がほんのわずかに揺れた。
しまった、と思った時には遅い。
「ごめん」
先に謝ったのはナマエだった。
「責めたいわけじゃなくて……なんか、少しだけ、いつもと違う気がしたから」
その言葉に、キルアは返事を失う。
違う。
その通りだった。
でも、それをどう説明すればいい。
お前の知らない過去を見たせいで、今のお前の仕草全部に勝手に昔を重ねてる、なんて言えるわけがない。
「……お前のせいじゃねーよ」
ようやく出たのは、それだけだった。
ナマエは黙ってキルアを見る。
大きな瞳が、まっすぐこちらを映している。
その視線に、また胸の奥が痛んだ。
映像の中のナマエは、誰かを見る時、怯えと諦めが先にあった。
今は違う。
今この目は、ちゃんと自分を見ている。
信じて、待って、帰ってきた相手として見ている。
その姿が、今日はどうしても心のどこかに引っかかる。
「……ちょっと、考えごとしてただけ」
苦し紛れにそう言うと、ナマエは少しだけ迷うように瞬きをした。
納得していないのはわかった。
それでも、無理に聞き出そうとはしない。
「そっか」
小さく頷いて、視線を落とす。
その横顔に、ほんの少しだけ寂しさが混じる。
キルアは思わず何か言いかけて、やめた。
下手に言葉を足せば、余計に不自然になる気がした。
沈黙が落ちる。
重いわけじゃない。
けれど、いつもの静けさとは少し違う。
同じ部屋にいて、同じ距離にいるのに、見えない薄膜が一枚挟まったみたいだった。
その空気を破るように、ナマエがそっと手を伸ばす。
テーブルの上に置いていたキルアの手の甲に、指先が触れた。
「……でも、帰ってきてくれてよかった」
あまりにも自然な声音だった。
「待ってる時間長いと、ちょっとだけ落ち着かなくなるから」
また、胸の奥で何かが軋む。
待つ。
落ち着かない。
帰ってきてくれてよかった。
どれも今のナマエの素直な言葉なのに、キルアの中では勝手に別の意味を連れてくる。
閉じた部屋。
誰も来ない時間。
小さな「たすけて」。
キルアは目を伏せたまま、遅れてその手に触れ返した。
握るほど強くはなく、逃がさない程度に指先を重ねる。
重ねられた指先に、ナマエが少しだけ息をつく。
安心した時の、やわらかい吐息だった。
その音にまで、救われるより先に苦しくなる自分が、どうしようもなく嫌だった。
「……悪い」
ぽつりと落ちた声に、ナマエが瞬く。
「え?」
「なんでもない」
すぐに打ち消すと、ナマエは困ったように眉を下げた。
それでも手は引っ込めない。キルアも離さなかった。
離したくなかった。
ただ、こうして触れている今この瞬間にさえ、勝手に昔を重ねてしまう自分が、ひどく厄介だった。
窓の外で、風が少し強く鳴る。
部屋の中はあたたかい。
隣にはナマエがいる。
ちゃんと、今ここにいる。
それなのに、キルアの中だけが、まだあの白い部屋から戻りきれていなかった。
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