04



ナマエは途中から、キルアが無理に会話を続けようとしていないことを察したのか、いつもより控えめに言葉を選ぶようになっていた。
気を遣わせているとわかるたび、胸の奥が鈍く痛む。

それでも、完全に離れてしまうことはなかった。
隣に座って、同じ本を眺めたり。
窓の外の暗さについて、短く言葉を交わしたり。

どれも穏やかな時間だった。
穏やかなはずなのに、キルアの中では、ひとつひとつが妙に鮮明だった。

「……ねえ」

しばらくして、ナマエが小さく呼ぶ。

「ん?」
「キルアの声、聞こえると落ち着く」

不意打ちみたいな一言だった。

キルアは視線を上げる。
ナマエはカップを持ったまま、少し照れたように目を伏せていた。

「ずっと話してなくても、たまに返事してくれるだけで、ちゃんといるってわかるから」

その言葉に、また前触れもなく、あの音声が蘇る。

こわい。
やだ。
たすけて。

掠れて、擦り切れて、それでも誰かに届いてほしくて零れた声。

今、目の前にいるナマエの声は、あまりにもやわらかい。
同じ喉から出たものだと信じられないくらい、穏やかで、あたたかい。

「……そっか」

どうにか返した声は、自分でもわかるほど低かった。

ナマエが顔を上げる。

「うん」
「……なら、よかった」

それ以上は続かなかった。
続けようとすれば、たぶん何かが滲む気がした。

ナマエは少しだけ不思議そうにしながらも、やがて小さく笑った。
その笑みを見て、キルアはようやく少しだけ息を吐く。
その笑顔に救われる。
そう思うのに、同時に苦しい。
今こうして安心して笑ってくれることが、どれだけ長い恐怖の先にあるのかを、知ってしまったから。

やがて、眠る時間になった。

灯りを落とした部屋は、昼間よりずっと狭く感じる。
壁際の影が濃くなり、窓の外の気配も遠のいて、聞こえるのは衣擦れと呼吸の音くらいだった。

ナマエは先に横になった。
いつもなら、もう少し何か話すこともある。
今日読んでいた本の続きとか、明日の予定とか、そんな他愛ないことを。
けれど今夜は、ナマエの方もどこか遠慮しているのがわかった。

「おやすみ」

小さな声がする。

「……おやすみ」

返すと、ナマエは少しだけ安心したように目を閉じた。

キルアも隣に横になる。
距離は近い。
手を伸ばせばすぐ触れられるくらい。
それなのに、眠気はまるで来なかった。

暗闇の中では、余計なものばかり鮮明になる。

白い部屋。
固定された画角。
扉の前で跳ねる肩。
顔を庇う細い腕。
そして、誰もいない部屋に落ちた、あの小さな声。

――たすけて。

キルアは目を閉じたまま、浅く息を吐いた。

忘れられるわけがない。
一度見てしまったものは、そう簡単に消えない。

隣から、かすかな寝返りの音がした。
視線を向けると、ナマエの呼吸は眠りに落ちきっていないみたいに少し浅い。
眉がほんのわずかに寄っていて、指先が布の上を探るように動く。
大きくうなされているわけじゃない。
ただ、落ち着かないのだとわかる程度の、小さな揺れだった。

その仕草だけで、また胸の奥がざわつく。

映像の中のナマエも、あんなふうに落ち着かない目をしていた。
何かを待つみたいに、扉の方を見ていた。
来るはずのない誰かを、それでも待っていた。

キルアはしばらく迷ってから、そっと手を伸ばした。

起こさないように、静かに。
指先が触れるか触れないかのところで一度止まる。
それから、ナマエの手の近くへ、自分の手を置いた。

次の瞬間、ナマエの指が、半分眠ったままその手を掴んだ。
きゅ、と弱い力で縋るみたいに握られて、キルアの呼吸が止まる。
ナマエは目を開けない。
ただ、確かめるように指先を絡めて、それから少しだけ身体ごとこちらへ寄ってきた。

「……キルア」

寝言とも、半分起きている声ともつかない、小さな呼び声だった。

「……いる」

反射みたいに返すと、ナマエの眉がわずかにほどける。

「……よかった」

それだけ言って、また静かになる。

キルアは動けなかった。

昔は、誰の手も安心じゃなかったのかもしれない。
伸びてくる手に怯えて、触れられる前から身を縮めていた。
足音ひとつで強張って、声ひとつで震えていた。

それなのに今は、自分の手を探してくれる。
自分の声に、よかったと息をつく。

その事実が、胸の奥に重く沈む。

嬉しい。
どうしようもなく。
でも、ただ嬉しいだけではいられない。
そこに至るまでの時間を、“事実”として見てしまったから。

ナマエの手は、眠りの中でも離れない。
細い指先が、確かにキルアを掴んでいる。
キルアはその手を見つめたまま、もう片方の手でそっと髪に触れた。
撫でるというより、そこにいることを確かめるみたいな、かすかな動きだった。

「……今は、ここにいる」

声に出したつもりはなかった。
けれど、唇の内側で零れたその言葉は、自分自身に向けた確認でもあった。

――今のお前は、あの部屋にはいない。

わかってる。
わかってるのに、足音ひとつ、声ひとつ、手の温度ひとつで、勝手に昔を重ねる。

見てるのは昔じゃない。今の彼女のはずだ。
それなのに、見たせいで、自分の方がちゃんと戻れてない。

ナマエの呼吸が少しずつ深くなっていく。
握る力も、安心したみたいにやわらいだ。

キルアはそのまましばらく動かなかった。
手を離したくなかったし、離したらまた、あの映像が鮮明になる気がした。

どれくらいそうしていたのか、自分でもわからない。
やがて、ナマエが完全に眠りに落ちたのを確かめてから、キルアはそっと身体を起こした。
手はすぐには抜けなかった。
指先をほどくのに、妙に時間がかかる。
起こさないように離れて、静かにベッドを降りる。

部屋の隅に置いた水差しから水を注ぎ、一口飲んだ。
冷たさが喉を通っても、頭の奥の熱は引かない。

窓際に立つ。
外は暗く、街の灯りが遠く滲んでいた。

「……ちゃんと、できてるつもりだったのに」

誰に聞かせるでもない声が、夜の中に落ちる。

守るとか、支えるとか。
そういうことを、少しはうまくやれているつもりだった。
あいつが安心して眠れる場所を作れていると。
帰ってきた足音にほっとできるくらいには、ちゃんと隣にいられていると。
それは嘘じゃない。
実際、今のナマエはここで眠っている。
でも、今日見たもののせいで、その“今”にまで勝手に昔を混ぜてしまう。
あいつの声を聞いても、手に触れられても、安心するより先に、知らなかった時間の痛みが差し込む。

「……見たせいで、お前まで変にさせたくねーのに」

低く零した声は、思ったより掠れていた。

今日、ナマエは何もしていない。
ただいつも通り、帰りを待って、声をかけて、隣にいて、手を伸ばしただけだ。
それなのに、少しずつ空気を変えてしまったのは自分の方だった。

キルアは目を伏せ、窓枠に額を預ける。

今さら知って、何になる。
そう思わないわけじゃない。

出会う前の時間は取り戻せない。
あの部屋にいたナマエを助けに行けるわけでもない。
映像の中で震えていた肩に、今から手を伸ばせるわけでもない。

それでも、知らないままでいたくはなかった。

知らなかったことが苦しいんじゃない。
知ったあとで、今のお前をちゃんと見られなくなるのが、苦しい。

しばらくそうしてから、キルアはゆっくり顔を上げた。

ベッドへ戻る。
足音を残して近づくと、眠っているナマエが、無意識のまま少しだけこちらのいた側へ寄っていた。
さっきまでキルアがいた場所を探すみたいに、片手が布の上に伸びている。
その手を見た瞬間、胸の奥がまた静かに痛んだ。

キルアはベッドの縁に腰を下ろし、再びその手に自分の指を重ねた。

ナマエは目を覚まさない。
けれど、触れた指先を確かめるみたいに、ほんの少しだけ握り返す。

「……わかってる」

今度は、はっきり声に出した。

「今のお前は、ここにいる」

それはナマエに向けた言葉というより、自分に言い聞かせるためのものだった。

ちゃんと見ろ。
昔じゃなくて、今を。

そう思っても、まだ完全にはできない。
けれど、そうしなければいけないことだけは、痛いほどわかっていた。

キルアはその手をしばらく握ったまま、静かに目を閉じた。
眠気はまだ遠かった。







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