05



眠れないまま迎えた薄明るさは、何も誤魔化してくれない。
暗闇の中では輪郭の曖昧だったものが、朝になると妙にくっきりしてしまう。
昨夜見たものも、考えないようにしていたことも、全部そのままの形でそこにあった。

キルアは、ナマエを起こさないように静かに部屋を出た。

扉を閉める直前、一度だけ振り返る。
昨夜、自分の手を掴んだまま安心したように眠り直した顔と、今の静かな寝顔が重なる。

今は、ここにいる。

そう思う。
思うのに、胸の奥のざらつきは消えない。

廊下を歩きながら、キルアは浅く息を吐いた。

見たこと自体は後悔していない。
見なければよかったとも思わない。
知らないままでいたくはなかった。
あいつの知らないところで、あんなものが残っていたことを、見過ごしたくはなかった。

けれど、知ったせいで今まで通りにできなくなるのは、最悪だった。

足音ひとつ。
声ひとつ。
手の温度ひとつ。

それだけで勝手に昔を重ねて、今のナマエを見ているはずなのに、キルアの方があの白い部屋から戻れていない。

「……最悪」

誰に向けるでもなく、低く零す。

外へ出ると、朝の空気は思ったより冷たかった。
頭を冷やすにはちょうどいいはずなのに、内側の熱は引かない。
むしろ、静かな分だけ余計なことばかり浮かぶ。

昨夜のナマエの声。

“キルアの声、聞こえると落ち着く”

あの言葉を思い出すだけで、胸の奥が痛む。

嬉しかった。
それは本当だ。
でも同時に、あの掠れた「たすけて」が耳の奥で重なる。

同じ声だ。
同じ人間の声だ。

そう思った瞬間、どうしようもなく息が詰まった。

「……あいつに気づかせたくなかったのに」

昨日、少しだけ空気を変えてしまった。
何も知らないナマエに、理由のわからない違和感だけを渡した。
それが一番嫌だった。

ポケットの中で端末が震えたのは、その時だった。

取り出して画面を見る。
短い通知。差出人はクラピカだった。

【時間があるなら来てほしい。昨日の件で話したい。】

数秒、画面を見つめる。

行かない理由はなかった。
むしろ、行かなければこのまま一人で同じところを回り続けるだけだと、どこかでわかっていた。

キルアは短く了承を返し、端末をしまう。

朝の街を歩き出しながら、無意識に奥歯を噛みしめた。

話したところで、過去が消えるわけじゃない。
見たものがなくなるわけでもない。
それでも、昨日のまま抱えたままじゃ駄目だということだけは、はっきりしていた。



クラピカが指定した場所は、調査の拠点として使っている静かな部屋だった。

昨日の地下施設とは違って、窓もあるし、光も入る。
それなのに扉を開けた瞬間、胸の奥がわずかに強張る。昨日の続きみたいな感覚が、まだ身体のどこかに残っていた。

中にはもう三人揃っていた。

「キルア!」

最初に声をかけたのはゴンだった。
いつも通りの声色に近いのに、目だけは隠しきれない心配を滲ませている。

レオリオは椅子に座ったまま、ちらりとこちらを見た。

「来たか」

ぶっきらぼうな言い方だったが、責める響きはない。

クラピカは窓際から振り返り、静かに頷いた。

「すまない。呼び出す形になった」
「別に」

短く返して、キルアは空いている椅子に腰を下ろした。

部屋の中には、昨日の資料そのものは置かれていなかった。
それだけで少しだけ息がしやすくなる。
クラピカなりの配慮だと気づいて、何も言わないまま視線を落とした。

しばらく、誰も口を開かなかった。

無理に切り出さない沈黙だった。
急かされているわけじゃない。
でも、逃がされてもいない。
その空気を作れるのは、たぶんこの三人だからだと思った。

やがて、クラピカが静かに言う。

「昨夜のうちに、記録媒体と資料は分けて保全しておいた。望まない限り、彼女の目に触れることはない」

キルアは小さく息を吐く。

「……助かる」
「ただ」

クラピカの声は変わらない。

「それで終わりにはできないだろう」

図星だった。

キルアは返事をしない。
代わりに、膝の上で組んだ指先に少しだけ力が入る。

ゴンが、少し身を乗り出す。

「昨日から、ずっと考えてたんだよね」

問いかけというより、確認に近い言い方だった。

「……まあな」
「ナマエのこと?」

その名前が出た瞬間、胸の奥がまた鈍く痛む。
キルアは一度だけ目を閉じて、それから開いた。

「それ以外ねーだろ」

言い方はいつも通りぶっきらぼうだった。
けれど、棘はなかった。
むしろ、疲れが滲んでいた。

レオリオが腕を組んだまま、低く言う。

「なら、なおさら一人で抱え込むな」

その一言に、キルアはわずかに眉を寄せた。

「抱え込んでるつもりは――」
「あるだろ」

遮るように返される。

「つもりがあるかどうかじゃねえよ。昨日のお前、どう見ても一人で飲み込もうとしてた」

言い返しかけて、やめる。
否定できなかった。

昨日の保管庫でも。
帰ってからも。
結局、自分の中で処理しようとして、うまくできなくて、ナマエにまで違和感を渡した。

沈黙したキルアを見て、ゴンが小さく息をつく。

「キルア」

呼ばれて顔を上げると、ゴンはまっすぐこちらを見ていた。

「今、ナマエが見てるのは、昔のことじゃないよ」

キルアの喉が、わずかに詰まる。

「足音で安心してるのも、声で落ち着くって言ってるのも、キルアだからだよ」

あまりにもまっすぐで、飾りのない言葉だった。

「キルアが見たのは過去だけど、ナマエが今見てるのは、ちゃんと今のキルアだと思う」

その言葉に、すぐには返せなかった。

わかっている。
頭では、最初からわかっていた。
ナマエが昨日向けていたものは、映像の中の誰かじゃない。
今ここにいる自分だ。
帰ってきた足音に安心して、声に落ち着いて、手を伸ばしてきたのは、今の自分に対してだ。

それでも、わかっていることと、うまく受け取れることは別だった。

「……わかってる」

ようやく出た声は、少し掠れていた。

「わかってんだよ、そんなこと」

部屋の空気が静かになる。

キルアは視線を落としたまま、続けた。

「見たこと自体は後悔してねーよ。知ったつもりでいたくなかったし、あんなもん残ってるの見過ごしたくもなかった」

言葉にしていくたび、胸の奥のざらつきが少しずつ輪郭を持っていく。

「でも……見たせいで、昨日帰ってから、足音も、声も、手も、全部勝手に繋がった」

誰も口を挟まない。
だからこそ、止まれなかった。

「今のあいつがもうあそこにいないって、わかってる。わかってるのに、ちょっとした仕草ひとつで、昔の方が先に浮かぶ」

膝の上で握った指先に、さらに力が入る。

「それで、変に間が空いたり、返事が遅れたりして……あいつ、気づいてた」

最後の一言は、ほとんど吐き捨てるみたいだった。

「何も知らねーのに。何もしてねーのに。オレの方が勝手に見たもん引きずって、あいつに変な空気渡した」

レオリオがわずかに眉をひそめる。
ゴンは黙ったまま聞いている。
クラピカの表情は変わらないが、視線だけが静かにこちらを捉えていた。

キルアは一度息を吸って、それから低く続けた。

「知られたくない。あんなもん知ったら、あいつ、自分を責めるかもしれねーし……」

そこで一度、言葉が詰まる。
本当に言いたくない部分ほど、喉に引っかかった。
けれど、ここまで来て飲み込めなかった。

「……オレとのことまで、能力のせいだったんじゃねーかって、思うかもしれないだろ」

部屋の空気が、さらに静かになる。

それが一番嫌だった。

あいつが自分を責めることも。過去を思い出して傷つくことも。
全部嫌だ。

でも、それ以上に耐えられないのは、ナマエが自分との時間まで疑うことだった。

足音に安心したこと。
声に落ち着いたこと。
自分から手を伸ばしてくれたこと。

その全部を、能力の残滓や、歪められた依存の延長だと思ってしまったら。
そんなのは、あまりにも汚い。

「……でも、それだけじゃない」

キルアは低く言った。

「一番嫌なのは、オレの方が勝手に昔を重ねて、今のあいつをちゃんと見れてねーこと」

言ってしまった瞬間、ようやく自分の中で何かが定まった気がした。

これだ。
昨日からずっと苦しかったものの正体は。
過去が重いからじゃない。
映像が残酷だったからだけじゃない。

それを知った自分が、今のナマエにまで勝手に影を落としてしまうこと。
それが、どうしようもなく嫌だった。

しばらくの沈黙のあと、最初に口を開いたのはレオリオだった。

「……お前さ」

声は低いが、怒っているわけではない。
むしろ、呆れと心配が混じったような響きだった。

「見たことまで、自分の責任みてーに抱え込んでんだろ」

キルアが顔を上げる。
レオリオは腕を組んだまま、まっすぐ言った。

「出会う前のことまで、お前が背負えるわけねえ。そこはまず分けろ」
「分けられたら苦労しねーよ」

思わず返すと、レオリオは即座に言い返した。

「分けられねえからって、全部まとめて飲み込もうとすんなって言ってんだよ」

その言葉に、キルアは黙る。
レオリオは続けた。

「それに、今あいつを変にさせてんのは“過去”そのものじゃねえ。お前が一人で抱えて、黙って、勝手に削れてるからだ」

容赦のない言い方だった。
けれど、痛いほど正しかった。

昨日、ナマエが感じ取った違和感は、過去の映像のせいじゃない。
それを見た自分が、うまく戻れていなかったせいだ。

「扱いは慎重でいい」

レオリオの声が少しだけ落ち着く。

「でも、お前まで潰れたら意味ねえだろ」

その一言が、思った以上に深く刺さった。
キルアは何も返せないまま、視線を落とす。
その沈黙を引き継ぐように、クラピカが静かに口を開いた。

「キルア、お前が苦しいのは、彼女の過去を知ったからだけではない」

キルアはゆっくり顔を上げる。

クラピカの声は、いつも通り落ち着いていた。
だが、その落ち着きは冷たさではなく、言葉を置く場所を正確に見極めるためのものだった。

「その過去を、今の彼女に重ねてしまう自分を恐れているのだろう」

図星だった。
否定する気にもなれない。

キルアはただ、黙ってその先を待った。







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