17
ナマエは目を見開いたまま、しばらく何も言えなかった。
その言葉が、すぐには理解できなかったのかもしれない。
あるいは、理解したくても、あまりにも信じられなかったのかもしれない。
「……わたしの心が変われば」
やっと絞り出した声は、ひどく小さかった。
「誰も、傷つかない……?」
その問いは、長いあいだ胸に巻きついていた鎖を、震える手でそっと確かめるみたいだった。
期待してしまうのが怖い。
もし違ったら、また同じ絶望に戻るだけだと、どこかでまだ怯えている。
それでも聞かずにはいられなかったのは、キルアの言葉があまりにもまっすぐだったからだ。
キルアは迷わず頷く。
「少なくとも、昨日のオレはそうだった」
ぶっきらぼうな言い方。
けれどその一言は、どんな慰めよりもずっと強かった。
ナマエの目から、大粒の涙がぽろぽろと零れ落ちる。
悲しい涙じゃなかった。
長い冬の終わりに、凍りついていた湖がようやく解けるみたいな、あたたかい涙だった。
「っ……」
ナマエは慌てて目元を拭おうとする。
泣いたらまたキルアの頭を痛めてしまう。
そう思ったのだろう。
長いあいだ染みついた恐れは、救われた瞬間にだって簡単には消えてくれない。
嬉しいのに、同時に怖い。
信じたいのに、まだ身体のどこかが怯えている。
けれど、目の前のキルアは眉を顰めるどころか、月光の下で驚くほど穏やかな顔をしてナマエを見ていた。
「……ぇ?」
涙に濡れた声が震える。
「キルア、痛くない、の……?」
「……言った通りだろ?」
キルアは少しだけ得意げに、でも照れくさそうに笑った。
その笑みはほんの一瞬だったけれど、ナマエにはそれだけで十分だった。
「本当だ……」
ナマエは信じられないものを見るみたいに、キルアを見つめる。
「キルアが、まったく苦しんでない……っ」
泣けば泣くほど、彼女の胸の中は“嬉しい”で満たされていく。
あたたかい。
救われた。
自分は呪いなんかじゃなかった。
そして何より、キルアがそれを見つけてくれた。
その純粋な喜びが、そのままオーラになってふわりと滲み出す。
今までのような、神経を刺す不快なものじゃない。
やわらかくて、甘くて、春先の白い花がいっせいに咲いたみたいな、幸福の気配。
それを受けて、キルアは耳まで真っ赤にしながら、そっぽを向いた。
「別に平気」
「……」
「なんなら、あったけーっつうか……」
言いながら、自分でも何を言ってるんだと思ったのか、さらに顔が赤くなる。
「っつーか、お前が今へんな泣き方してるせいで、こっちまで力抜ける」
「へんな泣き方……?」
「そう。なんか、泣いてんのに全然重くねーし……」
キルアは言葉を探すみたいに眉を寄せる。
「むしろ、頭ん中ふわふわする」
その瞬間だった。
ナマエの胸の中で、嬉しさが限界を超えた。
キルアが苦しんでいない。
自分の涙が、誰かを傷つけていない。
それどころか、あたたかいと言ってくれた。
その事実があまりにも嬉しくて、胸の奥で何かがぱっと咲いた。
ぶわ、と。
隠れ家全体を包み込むみたいに、濃密な幸福のオーラが一気に広がる。
白い百合の花が夜の中でいっせいに咲きこぼれたみたいな、甘くてやわらかな気配。
空気そのものが、ふわりと花の香りを帯びたように感じるほどだった。
「っ、ちょ……待て!」
キルアが目を見開く。
「何それ、急に濃すぎ!」
「えっ」
「頭ん中うるさ……っ、無理、ちょっと黙れ!」
「えええ!? 聞こえちゃってるの!?」
キルアは片手で顔を押さえたまま、わたわたと窓の方へ向かう。
耳まで真っ赤どころか、首筋まで赤い。
「聞こえるっつーか、頭ん中お前のお花畑で満杯なんだよ!」
「お、お花畑!?」
「……っ、クソ、照れ死ぬ! あっちの窓も開ける!!」
バタバタと何個も窓を開け放ち、夜風に当たって顔を冷やそうとするキルア。
けれど、本人だって分かっていた。
冷やしたいのは顔だけじゃない。
胸の奥が、どうしようもなく騒がしい。
押し寄せる愛おしさに、口元が緩むのを止められない。
「……っ、反則だろ、あんなの」
夜空を見上げて呟いた声は、半分は文句で、半分は降参みたいだった。
その後ろ姿を見つめながら、ナマエは静かに微笑む。
胸の奥は、今まで感じたことがないほどあたたかかった。
自分の存在を、力を、心ごと肯定してもらえた。
それがどれほど救いになるのか、うまく言葉にはできなかったけれど、ただ幸せだった。
月明かりの下。
夜風に髪を揺らしながら、二人は同じぬくもりの中に立っていた。
それはまだ恋と呼ぶには少し早くて、けれどもう、ただの監視や同情では決してなかった。
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