27
事件から数週間後。
ナマエは、のどかな地方都市のカフェにいた。
大きな窓から差し込む陽だまりが、テーブルをやわらかく照らし、湯気の立つ紅茶の表面に金色の光が揺れている。
通りを行き交う人々の足取りは穏やかで、店の奥では誰かが静かに笑っていた。
そんな、どこにでもある平和な午後だった。
もう、ナマエの中にあの能力はない。
白い百合の香りみたいなオーラも、人の心を揺らしてしまう不思議な力も、きれいさっぱり消えてしまった。
今のナマエは、本当にただの女の子だった。
けれど、それは喪失だけを意味しなかった。
店員が差し出してくれる水を、もう怯えずに受け取れる。
道でぶつかりそうになった人の「ごめんね」に、素直に「大丈夫です」と返せる。
落としたものを拾ってくれた誰かの親切を、裏も疑いもなく、そのまま胸に受け取れる。
それはナマエにとって、奇跡みたいに新しい日常だった。
“普通の親切”が、こんなにもあたたかいものだったなんて。
今のナマエは、ようやくそれを知りはじめていた。
誰かの笑顔に怯えなくていい。
差し伸べられた手の意味を、何度も疑わなくていい。
それだけのことが、胸がいっぱいになるほど嬉しかった。
能力が消えたことで失ったものは確かにあった。
けれど同時に、ナマエはようやく“世界に触れる自由”を手に入れたのだ。
その帰り道。
二人は夕暮れの公園を並んで歩いていた。
西に傾いた陽射しが世界を黄金色に染めている。
木々の葉はやわらかな光を透かし、足元に長い影を落としていた。
子どもたちの笑い声が遠くで弾み、風が草の匂いを運んでくる。
どこまでも穏やかで、やさしい夕方だった。
そんな景色の中で、ナマエはふと隣を歩くキルアを見上げる。
胸の奥に、まだ小さく残っていた不安が、夕暮れの影みたいにそっと浮かび上がった。
事件のあと、ナマエは変わらずそばにいてくれた。
以前と同じように、いや、以前よりもっと自然に。
けれどだからこそ、時々怖くなる。
この穏やかさが、自分に許されているものなのか分からなくなる。
力を失った今の自分に、まだ隣を歩く資格があるのかと、そんな考えがふいに胸をよぎってしまう。
「わたし……」
キルアがちらりと視線を向ける。
ナマエは少しだけ迷うように唇を動かしてから、ぽつりと続けた。
「本当に、ただの弱い女の子になっちゃった」
その声は静かだった。
けれど、その奥にはまだ消えきらない怖さが滲んでいた。
「もう特別な力は、1ミリも残ってないんだよ?」
その問いは、能力を失ったことへの確認であると同時に、もっと別の意味を含んでいた。
それでも、隣にいてくれるのか。
力のない私でも、まだ必要としてくれるのか。
そう聞いているのと同じだった。
キルアは一瞬だけ黙ると、呆れたように大きくため息をついた。
それから、いつものように頭の後ろで手を組む。
「あのさ」
ぶっきらぼうな声。
けれど、その響きには妙なやさしさが混じっていた。
「能力がなくなっても、お前が危なっかしくて目が離せないのは、1ミリも変わってねーんだけど」
「……え」
ナマエが目を瞬かせる。
キルアはその反応に少しだけ気まずそうな顔をして、視線を逸らした。
けれど、そこで誤魔化したりはしなかった。
不意に立ち止まる。
夕陽が二人のあいだに長い影を落とす中、キルアはナマエの前へ右手を差し出した。
少し照れくさそうで、でもちゃんとまっすぐな手だった。
「あの時は、お前のオーラが脳に響いて死ぬかと思ったけど」
わざと軽口みたいに言う。
「今はなーんにも響かねえ」
そして、少しだけ意地悪そうに口の端を上げた。
「な、ん、に、も、なーーし」
ナマエはその手を見つめたまま、しばらく動けなかった。
あまりにも自然で、あまりにもまっすぐで。
それがどれほど大きな意味を持つのか、たぶんキルア自身も分かっていて、だからこそ少し照れているのだろう。
能力があった頃なら、触れることにはいつだって何か別の意味がつきまとった。
拒絶、使命、同調、影響、恐れ。
けれど今、差し出されているその手には、そういうものが何ひとつない。
ただ“握りたいから握る”という、あまりにも単純で、あまりにも尊い意志だけがあった。
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