02
マフィアの追手から逃げ続けた末、彼女は都会の片隅で行き倒れていた。
どこをどう走ってきたのかも曖昧なまま、ただ生き延びるためだけに足を動かし、気づけばもう、立っていることすらできなくなっていた。
冷たい壁に背を預け、浅い呼吸を繰り返す。
胸の奥は焼けるように痛み、指先は凍えきって感覚が薄い。
追手の靴音も、怒号も、もう聞こえなかった。
振り切れたのか、それとも見失われただけなのかも分からない。
ただ、もう限界だった。
このままここで朝を迎えれば、誰かが見つけるかもしれない。
けれど、それが助けになるとは限らなかった。
むしろ見つかるくらいなら、このまま静かに終わってしまったほうがましだとさえ思えた。
寒い。
苦しい。
怖い。
それでも、もう逃げられない。
目を閉じる。
意識がゆっくり沈みかけた、そのときだった。
「おい、大丈夫か!?」
遠くで、男の声がした。
次の瞬間、ぐらりと身体が持ち上がる。
驚くほど大きな腕だった。乱暴なくらい力強いのに、不思議と落とされる怖さはない。
熱に浮かされた意識の底で、彼女はぼんやりと思う。
ああ、また誰かを巻き込んでしまった、と。
「ひでぇ熱……っ、おい、しっかりしろ!」
そこで意識は途切れた。
◇
次に目を覚ました時、彼女は見知らぬホテルのベッドの上にいた。
清潔なシーツ。
額に乗せられた冷たいタオル。
窓の外から差し込む光が、白い部屋の中をぼんやりと照らしている。
夢の続きみたいに静かなその空間で、彼女はしばらく、自分がまだ生きていることをうまく理解できなかった。
「……起きたか」
低くて大きな声に、肩がびくりと跳ねる。
ベッドのそばにいたのは、背の高い男だった。
スーツの上着を脱いで腕まくりをした姿はどこか無骨で、医者というより喧嘩っ早い用心棒みたいにも見える。
けれど、その手には湯気の立つ器があった。
「少しは食えそうか? おかゆ――」
そこまで聞いた瞬間、彼女の顔から血の気が引いた。
反射みたいに身体を引いて、震える声で叫ぶ。
「わたしに触らないで!」
「……は?」
「あなたもおかしくなっちゃう……!わたしに近づいたら、みんな……っ」
脳裏に過るのは、あの悍ましい光景だった。
自分に手を差し伸べた人たちが、次々と壊れていく。
優しさは執着に変わり、庇護は狂信に変わり、最後には自分のためなら何をしてもいいと笑うようになる。
そのたびに、胸の奥へ沈めていた罪悪感が、泥みたいに重く積もっていった。
だから、もう誰にも近づいてほしくなかった。
誰にも優しくしてほしくなかった。
自分は、人を壊す花だ。
綺麗だなんて言われるたび、その根元では誰かの心が静かに腐っていく。
けれど、目の前の男は、そんな彼女の悲鳴を真正面から受け止めたあと、次の瞬間には思いきり眉を吊り上げた。
「何が能力だ、お前、熱が40度近くあるぞ!」
バチン、と大きな手が彼女の額に当てられる。
「いいから寝てろ!」
あまりにも遠慮のないその勢いに、彼女はぽかんとした。
洗脳も、下心も、妙な熱っぽさも、そこには何ひとつなかった。
あるのはただ、目の前の病人をどうにかしなければという、ひどく真っ当で、泥臭くて、まっすぐな怒声だけだった。
「……え」
「え、じゃねーよ。水飲め。あとこれ食え。食わねーと治るもんも治らねぇ」
差し出されたおかゆから、白い湯気がふわりと立ちのぼる。
それはまるで、凍えきった冬の真ん中に差し出された小さな灯りみたいだった。
ぼんやりとその湯気を見つめながら、彼女はうまく言葉が出なかった。
誰かを狂わせるはずの力が、この男にはまるで通じていない。
それどころか、能力だの呪いだのと怯える自分ごと、豪快な怒声でまとめて布団の中へ押し戻されてしまった。
あまりにも泥臭くて、あまりにも人間くさいその優しさに、胸の奥へ深く刺さっていた毒の棘が、拍子抜けするほどあっさり抜け落ちる。
張りつめていた心が、ほんの少しだけ軽くなった気がした。
そこへ、二人の少年が合流した。
ひとりは黒髪で、陽だまりみたいにまっすぐな目をした少年。
もうひとりは銀髪で、部屋の隅に立つだけで空気の温度を少し下げるような、鋭い気配をまとった少年だった。
少し遅れて、金髪の青年も部屋に現れる。
事情を聞きつけたらしいその青年は、彼女の能力について、いつになく慎重な声で説明した。
「彼女の能力は、人の心に干渉する危険性がある。悪意を削ぎ、庇護欲を異常なほど増幅させる特質系能力だ。接触の度合いや精神状態によっては、正常な判断を失う可能性もある」
まるで壊れものに触れるみたいな言い方だった。
それは正しい。正しすぎるくらいに。
だからこそ、彼女は俯いたまま、シーツを握る指先に力を込めた。
やっぱり、自分はここにいてはいけない。
少しでも緩みかけた心が、また冷たい水を浴びせられたみたいに縮こまる。
ここにいれば、いつかこの人たちも壊してしまう。
そう思った、その時だった。
「へえ。じゃあ今この人が優しいのも、その能力のせい?」
あっけらかんとした声に、部屋の空気がわずかに揺れた。
背の高い男を指差しながらそう言ったのは、黒髪の少年だった。
「バカ言え!」
背の高い男が即座に真っ赤になって怒鳴る。
「俺は元からレディには優しいんだよ!」
そのやり取りがあまりにもいつも通りで、彼女は思わず顔を上げた。
黒髪の少年は「そっか」と素直に頷いて、それから何のためらいもなく彼女のベッドのそばへしゃがみ込む。
「じゃあ関係ないね」
「……え」
「ねえ、お腹空いてる? これ、街で一番美味しいお菓子なんだよ。一緒に食べよう!」
差し出されたのは、包み紙にくるまれた小さなお菓子だった。
能力の境界線なんて、まるで見えていないみたいに。
いや、見えていても気にしていないのかもしれない。
黒髪の少年の瞳は、朝の光をそのまま閉じ込めたみたいにまっすぐで、眩しかった。
この子には、能力が効いているのだろうか。
それとも、元々こういうふうに、誰に対しても無防備で、圧倒的に光なのだろうか。
分からない。
分からないけれど、その光の前では、これまで命がけで築いてきた拒絶の壁が、春先の薄氷みたいにあっけなくひび割れていくのが分かった。
「……なんで」
かすれた声が漏れる。
「なんで、そんなふうに……」
黒髪の少年はきょとんとして、それから当たり前みたいに笑った。
「だって、お腹空いてそうだから」
あまりにも単純で、あまりにもまっすぐな答えだった。
その一言だけで、彼女の中の何かが、また少し崩れた。
←|→
戻る