47



夜になると、キルアはナマエを連れて高い場所へ上がった。

街の灯りが一望できる、静かな屋上。
吹き抜ける風は少し冷たかったけれど、そのぶん夜景は息を呑むほど綺麗だった。
地上では人の気配や音が絶えず流れているのに、ここだけは別の世界みたいに静かだった。

光の海を見下ろすこの場所なら、誰にも邪魔されずにナマエを見ていられる。

そんなことを考えてしまう自分に、キルアは気づかないふりをした。

「すごい……」

フェンスの向こうに広がる光の海を見つめて、ナマエが小さく呟く。
その横顔を見ているだけで、キルアはここへ連れてきてよかったと思った。

「楽しい?」
「うん。すっごく」

ナマエは振り向いて、まっすぐに笑う。

「キルアとこうして、普通に歩いて、普通に笑って……それが、夢みたいに嬉しい」

その言葉に、キルアは一瞬だけ目を細めた。

普通。
ナマエが欲しがっていたもの。
自分が、どうにかしてやりたかったもの。

誰かに奪われることも、怯えながら眠ることもない、ただ穏やかな日常。
それをナマエがこんなふうに喜んでくれるなら、どんな手を使ってでも守り抜きたいと思ってしまう。

「星きれい」と伸ばされたナマエの指。そっと触れ、そのまま手を包み込む。
細くて、あたたかい指。
この手を離したくないと、どうしようもなく思う。

「……そっか。なら、よかった」

低く呟いてから、キルアは少しだけ視線を落とした。
けれど、ナマエが嬉しそうに自分の手を握り返してくるから、胸の奥に押し込めていたものが少しだけ溢れた。

「オレさ……お前に会うまで、誰かが笑ってるだけで安心するとか、そういうのよくわかんなかった」

そこで一度言葉を切る。
少し照れくさそうに眉を寄せて、それでもキルアは続けた。

「でも今は、お前がちゃんと笑ってると、それだけで……なんか、平気になる」

こんなこと、うまく言える柄じゃない。
けれどナマエは茶化さず、ただ大事なものを聞くみたいに静かに見つめてくる。
そのまっすぐさに、キルアは逃げられなくなる。

だからこそ、胸の奥にある本音が、少しずつ言葉になってしまう。

「だから、怖い時はちゃんとオレを呼べよ」

低い声が、夜気の中に静かに落ちる。

「何回でも行くから。お前が泣いてたら、どこにいても迎えに行く」

それは甘い言葉だった。
けれど同時に、ナマエを自分の手の届く場所へ繋ぎ止めたいという、昏い願いも滲んでいた。

キルア自身、そのことに気づいていないわけじゃない。
気づいていて、それでも口にしてしまう。

ナマエが自分を必要としてくれることが、嬉しくてたまらないから。
その必要が、いつかなくなってしまう未来を想像するだけで、胸の奥が冷たくなるから。

ナマエはそんな複雑さなんて知らないまま、胸がいっぱいになったみたいに目を潤ませた。

「……うれしい」
「泣くなよ」
「だって、キルアが優しいこと言うから……」
「別に優しくねーし」

そう言いながらも、キルアの指先はナマエの頬に触れて、零れそうな涙をそっと拭っていた。
そのまま引き寄せるようにして、二人の距離が近づく。

ナマエが目を閉じる。
キルアは一瞬だけ迷ったあと、そっと唇を重ねた。

短くて、やわらかいキス。

離れたあとも、ナマエの手はキルアの服をきゅっと掴んだままだった。
その小さな力が、キルアの理性をじわじわと甘く侵食していく。

もっとこのままでいたい。
もっと自分だけを見ていてほしい。

そんな願いが、キスの余韻と一緒に胸の奥へ沈んでいく。

「……帰りたくない。もう少しだけ、こうしてたい」

夜風に髪を揺らしながら、ナマエが少し恥ずかしそうに笑う。
その顔を見た瞬間、キルアはどうしようもなく思ってしまった。

――このままで。

誰にも見せたくない。
自分の隣だけで、こんなふうに笑っていてほしい。

その感情の強さに、自分で少しだけ息が詰まる。
けれどナマエは何も知らず、ただ安心したように肩を寄せてくる。

「……じゃあ、もう少しだけ。風邪ひく前にな」

そう言って抱き寄せた肩は、思っていたよりずっと細かった。
そのぬくもりを確かめるみたいに、キルアはほんの少しだけ腕に力を込める。

夜景は変わらず綺麗だった。
けれどキルアの目にはもう、街の灯りよりも、隣で笑うナマエのほうがずっと眩しく映っていた。







戻る


top