51



冷たい石の床。鼻を刺すような消毒薬の匂い。白く、無機質な壁。どこかで水滴の落ちる音がする。

ナマエは息を呑んだ。
そこがどこなのか、すぐには分からなかった。
でも、次に見えた光景で、全てを察した。

「……あ、」

低く漏れた声は、ひどく硬かった。
部屋の中央に、小さな子どもが立っていた。
銀色の髪。
細い身体。
まだ幼いはずなのに、妙に静かな立ち姿。

幼いキルアだった。

ナマエの喉が詰まる。
目の前の光景が何なのか、ようやく理解する。
これは記憶だ。誰かの念能力か、あの石台に残っていた何かか。
とにかく今、自分はキルアの過去の中に立っている。

「キルア……」

部屋の奥から、低い声がした。

「もう一度だ」

姿は見えない。
けれどその声だけで、空気が冷たくなる。
命令することに慣れた声。逆らうことを許さない声。

幼いキルアの前には、黒い布が一枚敷かれていて、その上に短い刃が置かれていた。
掌に収まるほどの、小さく鋭い刃。小さな手には、すでにいくつもの傷が走っている。浅く裂けた跡が幾重にも重なって、乾きかけた血が指先や掌にこびりついていた。

「握れ」

短い命令に、幼いキルアが無言で手を伸ばす。
細い指が刃を包み込んだ瞬間、ナマエは思わず息を呑んだ。
幼い肩が、びくりと揺れる。喉の奥で、かすかに息を殺す音がした。ほんの少し、眉が寄る。

「顔に出すな」

低い声が落ちる。
それだけで、部屋の空気がまたひとつ冷えた気がした。

幼いキルアの喉が小さく上下する。
けれど刃は離さない。掌から滲んだ赤が、細い指を伝って床へ落ちる。

「もう一度」

命じられるまま、いったん刃を離し、また握る。
今度はさっきより強く。
皮膚が裂ける痛みに、さすがに呼吸が乱れる。それでも泣かない。ただ、こらえきれなかったみたいに、目元がほんのわずかに歪んだ。

「違う」

その一言のあと、鈍い音がした。
幼いキルアの身体がびくりと揺れる。

ナマエは思わず一歩前へ出た。
けれど足は床を踏むだけで、何も変えられない。
声も届かない。触れることもできない。

「やめて……」

掠れた声が零れる。
でも誰にも聞こえない。

幼いキルアは倒れなかった。ただ一度だけ、ほんのわずかに息を止める。
それからまた、刃へ手を伸ばした。

――もう一度。
また掌が裂ける。
赤が滲む。
それでも今度は、眉ひとつ動かさない。
痛くないわけがない。
それなのに、その顔からは何も読めなかった。
痛みも、恐怖も、悔しさも、どこか遠くへ押しやられてしまったみたいな、静かな無表情。

その顔を見た瞬間、ナマエの胸がひどく痛んだ。
――ああ、こうして。
こうしてこの人は、あの顔を覚えてしまったのだ。
痛くても、怖くても、何もないみたいに見える顔を。傷つくことより、傷ついていると悟られることの方を先に捨てる顔を。

幼いキルアは、もう何も言わない。
ただ命じられるままに刃を握り、傷つき、また手を開き、また握る。キルアの中の何かが、削られているみたいだった。

ナマエは唇を噛んだ。
助けたい。抱きしめたい。大丈夫だと言いたい。
そんなことしなくていいと、痛いなら痛いって言っていいんだと、伝えたい。
でも、何ひとつ届かない。
ただ見ていることしかできないまま、景色がゆっくりと滲み始めた。







戻る


top