52



同時刻、キルアが立っていたのは、暗い部屋だった。

窓は小さく、高い位置にひとつだけ。
夜だった。外は真っ暗で、月の光さえほとんど入ってこない。
部屋の中には白百合の匂いが満ちている。甘くて、少し息苦しいほど濃い香り。

キルアの喉が詰まる。

部屋の隅に、小さな女の子が座っていた。膝を抱えて、背中を壁につけて、じっと扉を見ている。
幼いナマエだった。

「ナマエ……」

その姿を見た瞬間、キルアの胸の奥で何かが軋んだ。

幼いナマエは、何度も扉の方を見る。
誰かが来るのを待っているみたいに。
けれど足音はしない。部屋の外は静まり返っている。

「……ねえ」

小さな声。返事はない。

「もう、いい子にするから」

その言葉に、キルアは息を止めた。

幼いナマエは、膝を抱えたまま、扉へ向かって話しかける。
まるでそこに誰かがいるみたいに。あるいは、誰かが来てくれると、まだ信じていたいみたいに。

「ちゃんとするから……ちゃんと、言うこと聞くから……」

声が震えている。泣くのを我慢している声だった。

「だから……」

そこで言葉が詰まる。小さな肩が震える。それでもナマエは、必死に声を絞り出した。

「……たすけて」

キルアの足が前へ出る。
でも届かない。
分かっているのに、身体が勝手に動いた。
扉を開けてやりたい。その部屋から連れ出したい。
今すぐ抱き上げて、こんな場所から遠くへ連れていきたい。
けれど何もできない。ただ、見ていることしかできない。

幼いナマエはしばらく扉を見つめていた。まだ、誰かが助けに来てくれることを望んでいるみたいに。

でも、何も来ない。

やがて、ナマエの目からぽろりと涙が落ちた。
ひとつ。
またひとつ。
静かな夜に、声を殺した泣き方だけが残る。

「……いい子にしてれば」

掠れた声が、白百合の匂いの中に溶ける。

「いい子にしてれば、きっと……」

その先は続かなかった。
たぶん、分かってしまったのだ。
いい子にしていても、誰も助けに来てくれないことを。どんなに願っても、救いの手だけは来ないことを。

それでも幼いナマエは、扉の前から離れなかった。
最後まで、待っていたかったみたいに。
その小さな背中が、あまりにも細くて、あまりにも心細くて、キルアは奥歯を噛みしめた。

「……っ」

胸の奥が焼けるみたいに痛い。

ああ、ナマエは。
どんなに願っても、救いの手だけは来ない夜を知っていたんだ。
呼んでも返事がなくて、いい子にすると縋っても、扉は開かない。そうやって、何を差し出しても変わらない暗さの中で、ひとりで待つことを覚えてしまったんだ。

「……ごめん」

誰にも届かない声で、キルアは呟いた。
何に対しての謝罪なのか、自分でも分からなかった。
もっと早く救えなかったことか。今までその痛みを想像しきれていなかったことか。あるいは、そんな夜を知っているナマエを、自分の腕の中だけに閉じ込めたくなってしまったことか。

景色がまた滲み始める。
白百合の匂いが遠ざかる。
幼いナマエの小さな背中が、夜の中へ溶けていく。







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