53



気づけば、二人は礼拝堂の中に戻っていた。

砕けた色硝子の光。
古い床の軋み。
午後の静かな空気。
何も変わっていないはずなのに、世界の見え方だけが少し違っていた。

ナマエはその場に立ち尽くしたまま、すぐには息を整えられなかった。
喉の奥がつかえて、浅い呼吸だけが何度か漏れる。
まだ目の奥に、さっき見た光景の残滓が焼きついていた。
胸の奥がざわついて、うまく動けない。

隣で、キルアもまた黙っていた。
その気配がいつもよりひどく静かで、彼もまた何かを見たのだと分かる。
けれど、それが何だったのかまでは分からない。
分からないまま、訊くこともできなかった。

そっと顔を上げる。
ちょうど同じように、キルアもこちらを見た。
視線がぶつかった瞬間、ナマエの喉が小さく鳴る。
その目に残る揺れが、自分とよく似て見えた。
ただそれだけで、胸の奥がひどく落ち着かなくなる。

何かを見た。
たぶん、あまり触れられたくないものを。
でも、それが何なのかはまだ分からない。

やがてナマエが、そっと自分の手を見下ろす。
それから、少し迷うようにして、隣のキルアの手へ視線を移した。

傷の痕がある手。
細かな古傷が残る、骨ばった手。
その手を見ているだけで、胸の奥がまた小さく痛んだ。
さっき見たもののせいなのか、それともただ、キルアの様子がいつもと違うせいなのか、自分でも分からない。

ナマエはゆっくりと、その手に触れようとした。
けれど指先が触れる直前で、一度だけ止まる。
今ここにあるその手まで、ひどく脆いものに思えた。
それでも逃げたくなくて、壊れものに触れるみたいに、そっと指先を重ねた。

キルアがわずかに肩を揺らす。
その反応に、ナマエの指先も震えた。
けれど離さない。

「……痛かったね」

小さな声だった。
考えるより先に零れてしまったみたいな、ひどく素直な声。

キルアはすぐには答えなかった。
喉の奥が詰まって、うまく言葉にならない。
その沈黙が、かえって答えみたいだった。
やがて彼の指先が、ためらうようにナマエの手を握り返す。

「……お前も」

掠れた声。
その一言で、ナマエは息を止めた。

ああ、と思う。
この人が見たのは、自分のことだったのだ。
どの場面を見たのかは分からない。
でもきっと、自分が隠したかった過去のどこかだ。

胸の奥が、きゅっと縮む。
恥ずかしい、とは少し違う。
もっとやわらかくて、もっと痛い。
いちばん弱いところに、そっと触れられてしまったみたいな心細さ。

けれど、不思議と嫌ではなかった。
怖いのに、振り払いたくはない。
たぶんそれは、キルアの声が責めるものじゃなかったからだ。
見てしまったものを暴くためじゃなく、ただ同じように触れ返すための声だったから。

ナマエの睫毛が小さく震える。
それから、ほんの少しだけキルアの手を強く握り返した。

「……うん」

短い返事。
でもそれで十分だった。

お互い話には聞いていたけれど、全部分かったわけでは無かった。
今でも、あの時の痛みも、恐怖も、孤独も、きっと本当の意味では他人には分からない。
それでも。
互いのいちばん暗い場所を見てしまった今、前と同じ顔ではいられなかった。
知らないまま守ることは、もうできない。
知られていないふりをして甘えることも、もうできない。
その代わりに、前より少しだけ静かで、前よりずっと深いところで、相手を大事にしたいと思ってしまう。

「……もう、知ってる」

キルアがぽつりと言う。
ナマエは目を伏せたまま、小さく息を吐く。

「……うん」

それ以上の言葉はなかった。
いらなかった。

礼拝堂の中を、やわらかな光が満たしている。
壊れかけた色硝子を通った色が、二人の足元に淡く揺れていた。
その中で、二人はしばらく黙ったまま立っていた。
繋いだ手だけが、確かな熱を持っている。

守りたいと思った。
前よりもっと。
でもそれは、閉じ込めたいという衝動とは少し違っていた。
この人の痛みを知ってしまったから、もう雑には触れられない。
この人の夜を知ってしまったから、軽く扱うことなんてできない。
そんなふうに、静かに深く、大切にしたいと思った。

ナマエがそっとキルアの方へ寄る。
キルアは何も言わず、その肩を抱き寄せた。
強くではなく、確かめるみたいに。
そこにいることを、互いに失っていないことを、確かめるみたいに。

「……帰ろうか」

ナマエが小さく言う。
キルアは少しだけ間を置いてから、頷いた。

「ん」

礼拝堂を出る時も、手は繋いだままだった。
外では海風が吹いていて、午後の光が少しだけ傾き始めている。
世界は広くて、何も知らないみたいに穏やかだった。

けれど二人の中では、確かに何かが変わっていた。

あの日、痛くても離すことを許されなかった手。
あの夜、差し出しても誰にも取ってもらえなかった手。

その記憶を知った今、こうして互いに取っている手が、前よりずっと重くて、あたたかい。

キルアは歩きながら、繋いだ手をほんの少しだけ握り直した。
ナマエもまた、何も言わずに握り返す。

それは慰めだけじゃなかった。
同情でもなかった。
傷を見たうえで、それでも隣にいると選ぶための手だった。

潮の匂いを含んだ風が、二人のあいだをやさしく吹き抜ける。
そのぬくもりだけは、もう幻じゃなかった。







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