54
その日、ナマエは部屋の窓辺で雑誌をめくっていた。
くじら島の午後は穏やかだ。
海からの風が白いカーテンをふわりと揺らし、やわらかな光が床の上をゆっくり移動していく。
遠くで波の音がする。
誰かの話し声がかすかに聞こえて、また消える。
そんな静かな時間の中で、ナマエは膝の上に広げた雑誌をぱらぱらと眺めていた。
その雑誌は、ミトさんに借りたものだった。
家に置いてあった古い生活雑誌で、季節の料理や部屋の整え方、小物の特集なんかが載っている。
何気なく手に取っただけで、特に目的があったわけじゃない。
ただ、こういうふうにのんびりページをめくる時間が、少し好きになってきただけだ。
昔なら、何もしない時間は落ち着かなかったかもしれない。
何か役に立つことをしていないといけないような、理由もなく責められているような気持ちになっていたかもしれない。
けれど今は違う。
ただ静かな午後の中で、好きなものを眺めて、好きなだけ考えごとをする。
そんな時間を持っていていいのだと、少しずつ身体が覚え始めていた。
紙の匂い。
指先に触れるざらりとした感触。
色とりどりの写真。
知らないものがたくさん載っていて、でもどれも穏やかで、見ているだけで少し楽しい。
一枚、また一枚とページをめくる。
秋から冬へ移る季節の特集。
あたたかい飲み物。
毛布の選び方。
編み物の小物。
そして、ふとナマエの手が止まった。
冬の贈りもの特集。
そのページには、いくつかの小物が並んでいた。
マフラー、靴下、帽子、手袋。
どれもやわらかそうで、あたたかそうで、誰かのために選ぶことを前提に並べられているみたいだった。
ナマエの視線は、その中の手袋に吸い寄せられた。
「……手袋」
小さく呟く。
その言葉を口にした瞬間、胸の奥で何かが静かに揺れた。
手袋。
その響きから、すぐに思い浮かぶものがある。
キルアの手だった。
少し冷たい手。
細くて、骨ばっていて、でも指先は器用で、触れられると不思議なくらい安心する手。
自分の手を引いてくれる手。
眠れない夜に繋いでくれる手。
涙を拭ってくれる手。
守ってくれる手。
そして、傷の痕が残る手。
ナマエは雑誌の上にそっと指を置いたまま、しばらく動かなかった。
あの日見てしまった、小さなキルアの手が脳裏をよぎる。
失敗を許されず、痛みに慣れさせられて、何度も傷つきながら、それでも動かし続けた手。
血の滲んだ小さな指。
やがて何も感じないみたいな無表情を覚えてしまった、あの子どもの手。
今のキルアの手に触れるたび、ナマエは時々その記憶を思い出す。
かわいそう、という言葉では足りない。
ただ胸が痛くなって、でも同時に、今こうしてその手に触れられることがひどく大事に思える。
過去は消えない。
傷の痕も、きっとなくならない。
それでも今、その手は人を傷つけるためだけのものではなくなっている。
自分を抱きしめてくれて、涙を受け止めてくれて、眠るまで離さずにいてくれる。
そのことが、ナマエにはたまらなく愛おしかった。
「……あたためたいな」
気づけば、そう呟いていた。
誰に聞かせるでもない、小さな声。
でもその言葉は、自分でも驚くほど自然に胸へ落ちてきた。
あの手を、あたためたい。
守ってくれたから、何か返したい。
それもある。
好きだから、大事にしたい。
それもある。
でもたぶん、もっと単純だった。
冷たい手に触れるたび、あたたかくなればいいのにと思っていた。
傷のあるその手を、やわらかいもので包めたらいいのにと、ずっとどこかで思っていた。
何か特別なことをしたいわけじゃない。
ただ、寒い日に少しでもその手が冷えないようにしたい。
そんなささやかな願いが、胸の奥でやさしく形になっていく。
ナマエは雑誌を少し引き寄せる。
写真の中の手袋は、どれもきれいだった。
濃い灰色。
深い紺。
やわらかそうな編み目のもの。
すっきりした形のもの。
どれが似合うだろう、と考えた瞬間、胸が少しだけくすぐったくなる。
恋人に贈りものを選ぶ。
そんなことを、自分が考える日が来るなんて、前は想像もしなかった。
ナマエはそっと、自分の手を見た。
そこにあるのは、いつも、彼に救われてい手。
キルアはたくさんのものをくれた。
言葉をくれた。
居場所をくれた。
夜に安心して眠れるぬくもりをくれた。
“いていい”と思える時間をくれた。
それなのに、自分はちゃんと返せているだろうか。
最近、そんなことをよく考える。
もらってばかりじゃなくて、自分からも何か渡したい。
大きなものじゃなくていい。
でも、ちゃんと彼に届くものを。
キルアはきっと、何かをしてあげたことを大げさに言われるのは好きじゃない。
恩返しみたいにされるのも、たぶん少し違う。
だからこそ、もっと自然な形で渡したかった。
ありがとうも、好きも、全部まとめて、そっと手渡せるようなものを。
雑誌のページを見つめながら、ナマエはゆっくり息を吐いた。
「……これ、いいかも」
手袋。
それは派手な贈りものじゃない。
特別高価なものでもない。
でも、毎日使えて、ちゃんと役に立って、何よりあたたかい。
キルアはたぶん、こういうさりげないものの方が似合う。
それに、自分の気持ちにも近い気がした。
“好き”を大げさに言葉にするのは、まだ少し照れる。
“守ってくれてありがとう”をまっすぐ言うのも、たぶんうまくできない。
でも、寒い日にその手を包めるものなら渡せる気がした。
あなたの手を大事にしたい。
あたたかくしていたい。
そういう気持ちを、そっと込められる気がした。
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