57
家の裏手、木陰の下まで来て、キルアはようやく足を止めた。
潮風の音が遠くで鳴っている。
けれど胸の奥は、それよりずっと騒がしかった。
守りたい。
それは本当だ。
ナマエが笑っていられるなら、それでいいと思う。
怖い思いなんて、もう二度とさせたくない。
そう思ってきたはずなのに。
「……なんで、あんなこと」
低く吐き出して、前髪をかき上げる。
“俺じゃ、足りねーのかよ”
そんなの、あまりにも情けない。
ナマエは離れたいなんて一言も言っていない。
ただ、自分で歩けるようになりたいと言っただけだ。
それなのに、自分は一瞬で“置いていかれる”方を想像した。
ナマエが自分の音に安心して眠ること。
自分の体温がないと不安そうにすること。
服の裾を掴んで、どこにも行かないでと言うこと。
その全部に、どこかで安堵していた自分を思い出す。
「……最悪だろ」
守ってるつもりで、囲い込んでいた。
安心させてるつもりで、自分なしではいられないようにしたかったのかもしれない。
そんなの、ヒーローでも何でもない。
ただ、怖がってるだけだ。
ナマエが自分を必要としてくれることに、救われていたのは自分の方だった。
だからこそ、その必要が少しでも薄れる未来を想像するだけで、こんなにも醜く揺らいでしまう。
その日の夕方、ナマエは何も言わなかった。
いつもより少し静かに笑って、いつもより少し遠慮がちにキルアの隣に座っていた。
その様子が余計に胸に刺さる。
傷つけたのは自分だ。
ナマエはただ勇気を出して願いを口にしただけなのに、それを受け止めきれずに拗ねたのは自分の方だった。
夜になっても、キルアはうまく眠れなかった。
隣で眠るナマエの寝息を聞きながら、暗い天井を見上げる。
本当なら、喜ぶべきなんだろう。
ナマエが少しずつ前を向いて、自分の足で歩こうとしていることを。
それなのに、胸の奥では別の声が囁く。
行かせたくない。
一人でできるようになってほしくない。
ずっと、自分を頼っていてほしい。
「……っ」
キルアは目を閉じた。
そんな自分に、吐き気がする。
けれど、ナマエの寝顔を見れば見るほど、手放したくない気持ちもまた本物だった。
愛しているからこそ自由にしたい。
愛しているからこそ手元に置いておきたい。
その矛盾のどちらも嘘じゃないから、余計に苦しかった。
◇
翌朝。
ナマエは少し緊張した顔で、それでもちゃんと支度をしていた。
小さな鞄を肩にかけて、何度も深呼吸している。
その姿は、巣立ちの前の小鳥みたいに頼りなくて、でも確かに前を向いていた。
「……ほんとに行くのかよ」
玄関先で腕を組んだまま、キルアが低く言う。
ナマエはびくっとしながらも、こくりと頷いた。
「うん」
「道、分かってんの」
「たぶん……」
「たぶんって何だよ」
「で、でも、ちゃんと聞けば大丈夫だよ。たぶん」
その“たぶん”だらけの返事に、キルアは盛大に眉をひそめた。
今すぐ「やっぱなし」と言ってしまいたい。
一緒に行く。
いや、行かせない。
そう言ってしまえばどれだけ楽か。
けれどナマエは、そんなキルアを見上げて、少しだけ笑った。
「……行ってきます」
その声は、震えていた。
怖くないわけがない。
それでも行こうとしているのだ。
自分の意思で。
キルアはしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……無理だと思ったら、すぐ戻ってこい」
「うん」
「何かあったら、大声で呼べ」
「うん」
「知らない奴についてくな。変なのに話しかけられても無視しろ」
「う、うん」
「あと――」
言いかけて、キルアは止まる。
ナマエはじっと待っていた。
その視線に負けたみたいに、キルアは顔を逸らす。
「……気をつけろよ」
「うん。ありがとう、キルア」
ナマエはそう言って、小さく手を振って歩き出した。
その背中を見送るだけで、胸がざわつく。
キルアは玄関先に立ったまま、ナマエの姿が見えなくなるまで動けなかった。
見えなくなったあとも、しばらくその場から離れられなかった。
信じたいのに、信じきれない。
送り出したのは自分なのに、今すぐ追いかけたい衝動が喉元までせり上がってくる。
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