59



帰り道、空が少しだけ曇って、細かな雨が降り始めた。

さっきまでやわらかく差していた午後の光は、いつのまにか薄い雲の向こうへ隠れていて、海から吹いてくる風も少しだけ冷たくなっていた。
ぽつり、ぽつりと落ちてきた雨粒は最初こそ頼りなかったのに、気づけば細い糸みたいに空から静かに降り続いている。

ナマエは慌てて軒先へ駆け込み、鞄を抱えて少し困ったように空を見上げる。
大事な包みが濡れないように、胸元へきゅっと引き寄せる仕草がどこか必死で、その横顔は、ひとりで頑張ったぶんだけ、少しだけ心細そうだった。

ちゃんと行けた。
ちゃんと選べた。
でも、ひとりでやり遂げた帰り道の最後に降り出した雨は、張っていた気持ちを少しだけ緩めてしまう。
誰にも頼らずに歩こうと決めていたはずなのに、こんなふうに空模様ひとつで不安が胸に広がる自分が、少しだけ情けなくもあった。

それでもナマエは、泣きそうな顔はしなかった。
ただ、どうしよう、と小さく息をつきながら、雨脚の向こうを見つめていた。

その姿を見た瞬間、キルアはもう我慢できなかった。
気配を消したまま見守るのは、ここまでが限界だった。
本当は、最後まで気づかれないまま見届けるつもりだった。
ちゃんとひとりで行って、ちゃんとひとりで帰ってこられたのだと、ナマエ自身が思えるように。

けれど、雨宿りするその小さな背中があまりにも頼りなく見えてしまって、胸の奥で張りつめていたものが一気に切れた。
心配と、安堵と、会いたかった気持ちが、全部まとめて足を前に出させた。

「……何やってんだよ」

頭上から聞こえた声に、ナマエがはっと振り向く。

そこには、少し呆れた顔をしたキルアが立っていた。
片手には傘。
もう片方の手は、ポケットに突っ込まれている。

雨粒を背にしたその姿は、あまりにも見慣れた、ナマエだけのヒーローだった。
少し不機嫌そうで、少しぶっきらぼうで、でもちゃんと迎えに来てくれる人。

その姿を見た瞬間、胸の奥に溜まっていた不安が、音もなくほどけていく。

「キルア……!」

ナマエの顔が、ぱっと明るくなる。
その表情を見た瞬間、キルアの胸の奥に残っていた最後の棘が、少しだけ溶けた。
追いかけてきたことも、結局最後まで放っておけなかったことも、全部見透かされてしまいそうなくらい、ナマエの顔はまっすぐに嬉しそうだった。

責める気持ちなんて、もうほとんど残っていなかった。
あるのはただ、無事でよかったという安堵と、ちゃんとここまで来たんだなという、どうしようもなくあたたかい実感だけだった。

「迎えに来た」
「……怒ってる?」
「ちょっと」
「ご、ごめんなさい……」
「でも」

キルアはそこで言葉を切って、ナマエの顔をじっと見る。

少し疲れている。
少し不安そうだ。

でも、ちゃんと立っている。
ちゃんと帰ろうとしている。
ひとりで出かける前よりも、ほんの少しだけ顔つきが違って見えた。
怖かったはずなのに、迷ったはずなのに、それでも自分で歩いてきた人の顔だった。

その小さな変化が、キルアには眩しかった。

「……よく頑張ったな」

その一言に、ナマエの目がじわっと潤んだ。

怒られるかもしれないと思っていた。
勝手なことをしたと、呆れられるかもしれないとも。

だからこそ、責める代わりにそんなふうに言ってもらえたことが、胸にしみた。
ひとりで歩いてきた時間が、ようやく報われた気がして、嬉しさが静かにあふれてくる。
怖かったことも、道に迷って心細かったことも、人混みの中で息が詰まりそうになったことも、その全部が無駄じゃなかったのだと思えた。

キルアに認めてもらえたことが、何より嬉しかった。

「キルア……」
「泣くなよ、バカ」
「だって……」
「ほら、帰るぞ」

そう言って、キルアはナマエの前に手を差し出した。

抱き上げるためじゃない。
引っ張って連れていくためでもない。
ただ、隣に並んで帰るための手だった。

守るための手でありながら、同時に選ばせるための手。
無理やり連れ戻すのではなく、ナマエが自分で取るのを待つ手だった。

ナマエはその手を見つめて、それからそっと、自分の意思で握る。

指先が触れた瞬間、雨の冷たさとはまるで違うぬくもりが、じんわりと掌に広がった。
知っている温度だった。
何度も自分を安心させてくれた温度。

でも今は、ただ守られるためだけのものじゃない。
自分で歩いてきた先で、もう一度選んで握ることのできた手だった。

その瞬間、キルアの胸の奥で何かが静かにほどけた。
ああ、こういうことなのかもしれない、と、言葉にならないまま思う。

守ることと、奪うことは違う。
この手は、閉じ込めるためじゃなくて、並んで歩くためにあるのだと。

自分の隣にいてほしいと願うことと、自分の腕の中に閉じ込めることは、同じじゃない。
ちゃんと歩けるようになったナマエが、それでも自分の手を取ってくれるなら、それはきっと“失わないための支配”なんかより、ずっと強いものなのだろう。

軒先の外では、細かな雨がまだ静かに降り続いていた。

けれど二人のあいだには、もうさっきまでの心細さはなかった。
キルアが少しだけ傘を傾ける。
ナマエがその隣へ寄る。
そうして二人は、同じ歩幅で帰り道へ踏み出した。

雨の匂いに包まれたその道は、さっきまでより少しだけ、あたたかく見えた。







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