60
家へ戻る道は、雨上がりの匂いに満ちていた。
濡れた土の匂い、潮風の塩気、遠くで鳴く鳥の声。
二人は並んで歩く。
キルアはナマエの歩幅に合わせて、少しだけゆっくり歩いた。
ナマエもまた、ちゃんと自分の足で歩いている。
でも、繋いだ手は離れない。
「……ねえ、キルア」
「ん」
「さっきね、すごく怖かった」
「……うん」
「でも、ちゃんと行きたかった。キルアに、渡したいものがあったから」
ナマエはそう言って、鞄の中から小さな包みを取り出した。
少しでも濡れないように大事に包まれたそれを、両手で差し出す。
「これ……キルアに」
「これ?」
「うん。開けてみて」
知らないふりをしながらキルアは受け取って、そっと包みを開いた。
先程大事そうに買っていた、柔らかな灰色の手袋だ。
シンプルで、でも丁寧に選ばれたのが分かる、あたたかそうな手袋。
海風の冷たい朝に似合いそうな、やさしい色。
「……手袋」
「朝とか、海の近く、ちょっと寒いでしょう?」
ナマエは少し照れながら笑う。
「それに……キルアの手、好きだから。大事にしてほしくて」
その言葉に、キルアは完全に黙り込んだ。
好きだから。
大事にしてほしい。
この手を。
かつて血に濡れていた手。
自分では、綺麗だなんて一度も思えなかった手。
その手を、ナマエは好きだと言う。
傷つけてきた記憶ごと否定するでもなく、なかったことにするでもなく、それでも今ここにあるものとして、あたためるみたいに受け取ってくれる。
胸の奥が、じんわりと熱くなる。
さっき店先で見た時とは違う熱だった。
あの時は、ナマエが贈り物をしようとしてくれたことが嬉しかった。
今は、その先で選ばれたものが、自分の過去にまでそっと触れてくるのが苦しいほどあたたかい。
泣きそうになるのを誤魔化すみたいに、キルアは顔を背けた。
「……お前、ほんと」
「え?」
「ずるい」
「えぇ?」
ナマエがきょとんとする。
キルアは前髪の奥で目元を隠しながら、小さく息を吐いた。
「そんなの、嬉しいに決まってんだろ」
「……ほんと?」
「ほんと」
短く答えてから、キルアは手袋を片方だけはめてみる。
ぴったりだった。
そのぬくもりが、ただの布のあたたかさじゃない気がして、胸がまた熱くなる。
ナマエが自分のために迷って、悩んで、選んでくれた時間ごと、この手を包んでくれているみたいだった。
「どう?」
ナマエがおそるおそる聞く。
キルアはしばらく黙っていたが、やがて小さく笑った。
「……すげーいい」
その笑顔は、いつもの少し意地悪なものじゃなくて、ひどくやわらかかった。
ナマエはそれを見て、ほっとしたように笑う。
「よかった」
「ありがとな」
キルアはそう言って、手袋をはめた手でナマエの頭をそっと撫でた。
いつもみたいに乱暴じゃなく、壊れものに触れるみたいに優しく。
その手つきに、ナマエはくすぐったそうに目を細める。
「オレさ」
ぽつりと、キルアが言う。
「お前が一人で歩けるようになるの、ほんとは喜ぶべきなんだよな」
ナマエは黙って聞いている。
キルアは少しだけ視線を落とした。
「でも、怖かった」
「……うん」
「お前がオレなしでも平気になったら、置いてかれる気がして」
「キルア……」
「守ってるつもりで、閉じ込める方に行きそうだった。……ヒーローぶってたけど、ただ怖かっただけかもしれない」
その告白は、ひどく不器用で、ひどく正直だった。
ナマエは少しだけ目を潤ませて、それから繋いでいた手をぎゅっと握り返す。
「ヒーローだから好きなんじゃないよ」
「……え」
「キルアだから好きなの」
まっすぐな声だった。
少しも迷いのない、あたたかい声。
それは、彼の胸の奥に残っていた最後の氷を、静かに溶かしていくみたいだった。
「わたしは、一人で歩けるようになりたい」
ナマエは続ける。
「でも、一人になりたいわけじゃないの。ちゃんと自分で立てるようになって、それでもキルアの隣にいたい」
キルアは息を呑む。
ナマエは少し照れながら、それでもちゃんと笑った。
「帰る場所は、キルアのところがいい」
その一言で、胸の奥に張りつめていたものが、ふっとほどけた。
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