ひとりじゃない音・前
その頃のナマエは、まだひとりで部屋にいる時間が少し苦手だった。
誰かがいない静けさは、時々ひどく広く感じる。
窓の外で風が鳴る音や、廊下のきしむ音、遠くで誰かが戸を閉める音。
そういう小さな物音に、身体が勝手に強ばることがある。
何かが起こるわけじゃない。
危険があるわけでもない。
頭では分かっているのに、胸の奥だけが昔のまま置き去りになっていて、ふいに息が浅くなる。
そのことに、キルアは思っていたより早く気づいていた。
ナマエは「大丈夫」と言う。
実際、無理に取り乱したりはしない。
ひとりで待っていられるし、ちゃんと笑うこともできる。
けれど、静かな部屋に残された時だけ、肩の力の入り方が少し変わる。
物音に反応する目の動きが、ほんのわずかに鋭くなる。
扉の方を見てしまう回数が増える。
そういう小さな変化を、キルアは見逃さなかった。
だから最初から決めていた。
彼女の前では、気配を消しすぎない。
戻ってくる時は、ちゃんと分かるようにする。
急に背後に立たない。
扉の前で一度止まる。
廊下を歩く時は、わずかに足音を残す。
それは彼にとって、少し不自然な歩き方だった。
音を消すのは癖というより、もう身体の方に染みついている。
床のきしみを避けることも、気配を薄くすることも、考える前にできてしまう。
昔からそうやって生きてきた。
見つからないように。
読まれないように。
気づかれないように。
でもナマエには、その逆の方がいいと分かった。
姿を見る前に、誰が来るのか分かること。
近づいてくる気配が、恐怖じゃなく予告になること。
“急に現れない”と知っていること。
それだけで、彼女の呼吸が少し楽になる。
だからキルアは、ナマエの前でだけ音を残した。
それは大げさなことじゃない。
ほんの少し、床板を避けきらないだけ。
歩幅をわずかに変えるだけ。
扉の前で一拍置くだけ。
誰にも気づかれないくらい小さな調整。
けれどナマエにとっては、それで十分だった。
◇
その日も、キルアは少しだけ外へ出ていた。
すぐ戻るつもりだったし、彼女にもそう言ってある。
ナマエはちゃんと頷いて送り出した。
ひとりで待っていられる。
そう思っているのも、本当なのだろう。
けれど、扉が閉まったあとの静けさが、ナマエを少しずつ緊張させることをキルアは知っていた。
だから帰る時、廊下に入る前に少しだけ歩き方を変える。
いつものように音を消しきらず、床板が小さく鳴る程度に重心を落とす。
急がない。
一定の間で歩く。
扉の前で一度止まる。
そうすれば、ナマエは“誰かが来る”ではなく、“キルアが戻ってきた”と分かる。
それはたぶん、彼なりのやさしい計算だった。
◇
部屋の中で、ナマエは本を開いていた。
けれど文字はあまり頭に入ってこない。
机の上に差す午後の光はやわらかく、窓の外には海の気配がある。
穏やかな場所だ。
何も怖いことなんてない。
それでも静けさが広がっていくと、胸の奥が少しだけ落ち着かなくなる。
大丈夫。
すぐ戻る。
そう自分に言い聞かせた、その時だった。
廊下の向こうから、かすかに足音がした。
ナマエは顔を上げる。
軽い足取り。
急いでいるわけでもなく、重たくもない。
一定の間で近づいてくる、聞き慣れた音。
床板が小さく鳴って、また一歩。
少し間を置いて、もう一歩。
その音を聞いた瞬間、彼女の肩からふっと力が抜けた。
ああ、と思う。
キルアだ。
姿を見たわけじゃない。
声を聞いたわけでもない。
それなのに、どうしてか分かった。
この歩幅。
この軽さ。
扉の前で一度だけ止まる癖みたいな間。
それが誰のものか、もう身体が覚えていた。
ナマエは自分でも気づかないうちに、小さく息を吐いていた。
次の瞬間、扉が控えめに開く。
「ただいま」
聞き慣れた声がして、ナマエはようやくちゃんと笑った。
「……おかえり」
キルアは部屋に入ってきて、彼女の顔を見るなり少しだけ眉を寄せた。
「何、その顔」
「え?」
「なんか、ほっとしたみたいな」
言われて、ナマエは少しだけ目を瞬く。
それから、自分でも隠しきれないまま頬をゆるめた。
「……したかも」
「何で」
少し迷ってから、正直に答える。
「足音がしたから」
キルアがぴたりと動きを止めた。
「足音?」
「うん」
ナマエは膝の上に置いていた手を見下ろしながら、小さく続ける。
「キルアだって分かったから」
部屋の中が、ほんの一瞬だけ静かになる。
キルアは何も言わなかった。
ただ、少しだけ不思議そうな顔をしている。
ナマエはその沈黙に気づいて、慌てて言葉を足した。
「ごめん、変かな。なんとなく分かったの。歩き方、っていうか……音で」
「……ふうん」
短い返事。
でもその声は、いつもより少し低かった。
ナマエはそこでようやく、何かおかしなことを言ってしまったかもしれないと思う。
キルアはもともと気配が薄い。
いつの間にか近くにいて、声をかけられて初めて気づくこともある。
そういう人に向かって、足音で分かった、なんて言うのは変だったかもしれない。
「ごめんね」
「何で謝んの」
「なんか……嫌だったかなって」
キルアは少しだけ目を細めた。
それから、ナマエの向かいに腰を下ろす。
「別に」
ぶっきらぼうな言い方だった。
けれど怒っているわけではなさそうで、ナマエは少しだけ安心する。
キルアはしばらく黙っていた。
その横顔はいつも通りに見えるのに、どこか考え込んでいるようでもあった。
本当なら、誰かに足音で気づかれるなんてよくないことなのかもしれない。
彼はそういうふうに生きてきた人だ。
気配を消して、音を殺して、見つからないように動くことが当たり前だったはずだ。
ナマエにもそれくらいは分かる。
だからこそ、さっき自分が安心したことを、うまく言葉にできなかった。
「……でも」
ためらいがちに口を開く。
「足音がすると、安心するの」
キルアがこちらを見る。
ナマエは少しだけ視線を伏せたまま、ぽつりぽつりと続けた。
「誰かが来るって分かると、怖くないから。急に気配があるより、ちゃんと近づいてくるのが分かる方が……安心する」
言いながら、自分でも少し恥ずかしくなる。
子どもみたいだと思った。
でも、それが本当だった。
静かな部屋の中で、何の前触れもなく誰かが現れること。
気づいた時にはもう近くにいること。
そういうことに、身体が勝手に怯えてしまう。
だから、廊下の向こうから少しずつ近づいてくる足音は、それだけで“怖くない”と教えてくれるのだ。
キルアはしばらく何も言わなかった。
その沈黙に、ナマエはまた少し不安になる。
やっぱり変なことを言っただろうか。
困らせてしまっただろうか。
けれど次にキルアが口を開いた時、その声は思ったよりずっと静かだった。
「……そっか」
それだけだった。
でも、その短い言葉の中に、何かを受け取ったような響きがあった。
ナマエは小さく頷く。
それ以上は何も言わなかった。
キルアも何も聞かなかった。
その日はそれで終わった。
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