ひとりじゃない音・後



それからも、キルアはナマエの前でだけ音を残した。

廊下を歩く時、床板が小さく鳴る。
部屋の前で立ち止まる前に、一歩分だけ音が残る。
扉を開ける前に、そこにいると分かる。

それは偶然ではなかった。
最初からそうするつもりで、そうしていた。
ナマエがひとりで待つ時間に、少しでも“怖くない”を増やせるように。
自分が戻ることを、姿より先に知らせられるように。



ある夕方、ナマエは窓辺で手芸の糸をほどいていた。
外は薄い茜色で、部屋の中には静かな影が落ちている。
キルアはまた少し外へ出ていた。

ひとりの時間は、まだ完全に平気ではない。
でも前よりは、少しだけ呼吸がしやすくなっていた。
理由はたぶん、帰ってくる音を知っているからだ。

その時、廊下の向こうで床が小さく鳴った。

ナマエは顔を上げる。
一歩。
また一歩。
軽い足取り。
急がない歩幅。
扉の前で、ほんの少しだけ止まる間。

それだけで、胸の奥がやわらかくほどける。

「……キルア」

扉が開くより先に、ナマエはそう呟いていた。

次の瞬間、開きかけた扉の向こうで、キルアがわずかに目を見開く。

「何で分かったの」

前にも聞かれた問いだった。
ナマエは少し笑って答える。

「足音」

キルアは黙る。
その沈黙は短かったけれど、どこか深かった。

彼女は糸を膝の上に置いて、首を傾げる。

「……やっぱり、変?」
「いや」

キルアはそう言って部屋に入ってくる。
今日もちゃんと、その足音は彼女に聞こえる。

「別に」

ぶっきらぼうな返事。
でもその耳が、ほんの少しだけ赤い気がして、ナマエはそれ以上聞かなかった。

キルアは窓辺まで来ると、ナマエの手元を覗き込む。

「何してんの」
「糸が絡まっちゃって」
「貸して」

そう言って自然に隣へ座る。
その動きも、今はもう驚かない。
彼が来る前に、ちゃんと分かるからだ。

ナマエは糸を渡しながら、彼の横顔をそっと見る。

キルアは器用な指先で絡まりをほどいていく。
その表情はいつも通りで、特別なことなんて何もしていないみたいな顔をしている。
けれどナマエは知っていた。
たぶん彼は、自分のために少しだけ歩き方を変えている。

そのことに気づいた瞬間、胸の奥がじんわりとあたたかくなった。

大げさな言葉はない。
約束もない。
“安心させる”なんて口にもしない。
でも、こうして音を残してくれる。
自分が来ると分かるように。
怖がらなくていいと、姿を見せる前から教えるように。

それがひどく、キルアらしいと思った。

不器用で、言葉が足りなくて、でもやさしい。
やさしいくせに、それをあまり見せたがらない。
けれど本当に大事なことだけは、ちゃんと行動にしてしまう。

「……ねえ」

ナマエが小さく呼ぶと、キルアは糸を見たまま「ん」と返した。

「ありがとう」

その言葉に、彼の指先が一瞬だけ止まる。

「何が」
「わかんないけど」

彼女は少しだけ笑う。

「でも、ありがとうって思ったの」

キルアは顔を上げなかった。
ただ、ほどき終えた糸をナマエの手に戻して、少しだけそっぽを向く。

「……変なの」
「うん」
「意味わかんないし」
「うん」

それでもナマエが笑っていると、キルアは小さく息を吐いた。
呆れたみたいな顔をしているのに、その横顔はどこかやわらかい。

窓の外では、夕暮れの光がゆっくり薄れていく。
部屋の中には静かな空気が満ちていて、もうさっきまでの心細さはどこにもなかった。

ナマエはふと思う。

この人は、きっとずっと、見つからないように生きてきた。
音を消して、気配を殺して、誰にも読まれないように。
そうしなければならなかったのだろう。

なのに今は、自分の前でだけ音を残してくれる。

ここにいると分かるように。
近づいてくると分かるように。
怖くないと分かるように。

それはたぶん、とても小さなことだ。
誰かに話しても、きっと見過ごされてしまうくらいの。
でもナマエにとっては、確かなぬくもりだった。

足音がする。
キルアが来る。
それだけで、少し安心できる。

その音は、静かな部屋の中で彼女を怯えさせるものではなく、
“ひとりじゃなくなる”予告みたいに響く。

ナマエはそっと目を伏せて、ほどけた糸を指先で撫でた。

たぶんこれから先も、彼の足音を覚えていくのだろう。
歩幅も、間も、扉の前で止まる癖も。
そうして姿を見る前から、ああ帰ってきたのだと分かるようになる。

それはきっと、彼女にとっての安心の音だった。

そしてキルアは、たぶん今日も明日も何も言わない。
わざと音を立てていることも、気づいていることも、たぶん口にはしない。
ただナマエのいる場所へ戻る時だけ、少しだけ足音を残すのだ。

見つけてもらうために。
怖がらせないために。
自分が来たと、ちゃんと分かるように。

そのやさしさを、ナマエはまだうまく言葉にできない。
でも、胸の奥ではもう知っていた。

気配のない恐怖ではなく、足音のする人が、自分を安心させてくれるのだと。







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