29



あの過酷な戦いから、数週間後。

彼女を苦しめ、世界さえ狂わせかけていた念能力――
『心に咲く白百合(ピュア・リリィ)』は、きれいに消えていた。

もうナマエの中に、誰かの心を揺らす不思議な力はない。
白い百合の香りみたいな幸福の気配も、絶望を伝染させる危うい波も、何ひとつ残っていなかった。

今のナマエは、本当にただの女の子だった。



朝、目が覚めた瞬間。
ナマエは、ほんの一瞬だけ自分がどこにいるのかわからなかった。

薄い天井。
開け放たれた窓から入り込む、潮を含んだやわらかな風。
遠くで鳴く鳥の声。
家のどこかで、小さく響く生活音。

それらが少しずつ、眠りの底から意識を引き上げていく。

――ああ、くじら島だ。

そう思い出した途端、胸の奥に張りつめていたものが、わずかにほどけた。
追っ手の気配も、閉じ込められた部屋の冷たさも、ここにはない。
窓の外には青い空があって、風はやさしくて、世界は驚くほど静かだった。

最近は、ちゃんと呼吸ができる。
そう思える朝が、少しずつ増えていた。

けれど、その静けさに安堵するより先に、別の空白が胸をよぎる。

もう、自分には念がない。

その事実は、朝ごとに静かに身体へ落ちてくる。
世界とのあいだに、薄い膜が一枚挟まったみたいだった。
触れられそうで、触れられない。
そんな違和感だけが、まだどこかに残っている。

ナマエはそっと身を起こした。
布団の上で膝を抱えかけて、やめる。

じっとしていると、何もできない自分のことばかり考えてしまいそうだった。

せめて何かしよう。
役に立てることが、ひとつでもあればいい。

そう思って、音を立てないように部屋を出る。
廊下はまだ朝の静けさを残していて、板張りの床はひんやりとしていた。
台所のほうから、かすかに食器の触れ合う音がする。

その音に、ナマエは少しだけ肩の力を抜いた。
誰かが起きている。
それだけで、胸の奥の空白が少し薄くなる。

キッチンには、先に起きていたキルアがいた。

コップを片手に振り返った銀髪の少年は、ナマエの姿を見るなり、わずかに目を細める。

「……起きるの早」

まだ少し眠たそうな声。
けれど、その視線はすぐにナマエの全身をひととおりなぞった。
怪我はないか。
顔色は悪くないか。
ちゃんと立てているか。

言葉にされなくても、それが確認の目だとわかる。
ナマエは小さく肩をすくめた。

「キルアこそ」
「オレはもう起きてたし」

ぶっきらぼうに返しながら、キルアはコップを流しに置く。

ナマエはその横をそっと通って、棚の上へ手を伸ばした。
せめて朝の支度くらい、何かできたらと思ったのだ。

けれど、指先が縁に触れるより先に、横からすっと手が伸びてきた。

「それ、いい」

気づけば、目当てのものはもうキルアの手の中にあった。

ナマエは目を瞬く。
あまりにも自然な動きだった。
まるで最初から、そうするのが当たり前みたいに。

「……でも、何か手伝おうかなって」
「別にいいよ」

「何もしないの、落ち着かなくて」

そう言うと、キルアは一瞬だけ黙った。
それから、少しだけ困ったように眉を寄せる。

ナマエが何もせずにいることに耐えられないのを、たぶんわかっているのだろう。
役に立ちたいわけじゃない。
ただ、何もできないまま守られているだけの自分でいると、胸の奥がひどく心許なくなる。

その気持ちを、キルアはたぶん、言葉にしなくても知っていた。

「……じゃあ、危なくないやつだけ」
「危なくないやつ?」
「包丁とか火とか、重いのとか。そういうのナシ」
「それ、ほとんど何もないよ」

思わずそう返すと、キルアは少しだけ口元を歪めた。
笑った、というほどでもない。
でも、ほんのわずかに表情がやわらいだのがわかった。

「あるだろ。座ってるとか」
「それは手伝いじゃないよ」
「オレが安心する」

あまりにもさらりと言われて、ナマエは言葉を失った。

キルアは自分で言ったことの重さに気づいていないのか、気づいていて誤魔化したのか、そのまま何でもない顔で籠を持ち直す。
けれど、その横顔は少しだけ本気だった。

ナマエの胸の奥が、ふいにやわらかく揺れる。

守られている。
気にかけられている。

そのことは、もう知っていたはずなのに。
言葉にされると、思っていたよりずっとあたたかい。

同時に、胸の奥に小さな痛みも残る。
自分はそんなふうに気を遣わせるばかりで、何も返せていない。
念もなくして、できることも少なくなって、それでもこうして隣に置いてもらっている。

その事実が、やさしいぶんだけ少し苦しかった。

それでも。

「……ありがと」

小さくそう言うと、キルアは振り返らなかった。
ただ、肩越しに短く返す。

「別に」

そっけない声。
けれど、不思議と冷たくはなかった。
ぶっきらぼうなまま、ちゃんとやさしい。

朝の光が、キッチンの床にやわらかく落ちていた。
その中を動くキルアの背中を見つめながら、ナマエはそっと息をつく。

ここにいていいのかなんて、まだわからない。
何もできない自分のままで、守られてばかりで、本当にいいのかもわからない。

けれど。

あの背中が見えるだけで、少しだけ呼吸がしやすかった。
それだけで、今は十分な気がした。







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