30
くじら島での暮らしにも、少しずつ慣れてきた頃だった。
朝になれば潮の匂いで目が覚める。
昼には庭先にやわらかな陽が落ちて、風の強い日は窓が小さく鳴る。
夕方になれば、キッチンからあたたかな匂いが漂ってくる。
そんなふうに一日が静かに巡っていくことに、ナマエの身体もようやく少しずつ追いつきはじめていた。
それでも、まだ自分にできることは少ない。
念を失ったことも、落ちた体力も、ふとした拍子に思い知らされる。
だからせめて、日常の中でできることくらいはしたかった。
その日も、庭先に干してあった洗濯物を取り込もうとして、ナマエは廊下に置かれた洗濯籠へ手を伸ばした。
けれど、指先が持ち手に触れるより先に、横からすっと別の手が伸びてくる。
「それ、オレ持つ」
気づけば、籠はもうキルアの腕の中に収まっていた。
ナマエは目を瞬く。
まただ、と思う。
最近、こういうことが本当に増えた。
「……それくらい持てるよ」
「持てる持てないじゃなくて、持たなくていい」
「でも、洗濯物くらいは」
「くらい、でも」
言いながら、キルアは何でもない顔で縁側を上がっていく。
その足取りには迷いがない。
まるで最初から、ナマエが持つという選択肢なんてなかったみたいに。
ナマエは少しだけ唇を尖らせて、その後ろをついていく。
「最近、なんでも取るよね」
「なんでもじゃない」
「取ってるよ」
「危なそうなやつだけ」
「洗濯物が?」
「段差あるだろ」
あまりにも真顔で言うから、ナマエは返す言葉を失った。
たしかに縁側には小さな段差がある。
でも、それを危険に数えるのは、さすがに大げさすぎる気がした。
そう思うのに、キルアの顔は本気だった。
洗濯物を畳み終えたあと、ナマエは今度こそ何かできないかと台所を見回した。
せめて野菜を切るくらいなら、と包丁へ手を伸ばした、その瞬間。
「ダメ」
短い声が飛んできて、ナマエの手がぴたりと止まる。
振り返ると、少し離れた場所にいたはずのキルアが、いつの間にかすぐ後ろまで来ていた。
その視線は、包丁とナマエの手元をまっすぐ見ている。
「……まだ何もしてないよ」
「する前に止めた」
「切るだけだよ」
「だからダメ」
「そんなに危なくないって」
「危ない」
言い切られて、ナマエは小さく息をついた。
キルアはそのまま包丁をひょいと持ち上げると、何でもないことみたいに自分の手元へ引き寄せた。
その動きも、もうずいぶん自然だった。
取り上げる、というより、最初から渡す気がないみたいに。
「じゃあ何したらいいの」
少しだけ拗ねた声になってしまったのが、自分でもわかった。
キルアは一瞬だけ考えるように黙ってから、台所の隅に置かれていた調味料を顎で示す。
「それ、運ぶ」
「軽いやつ?」
「軽いやつ」
「……子ども扱いしてる?」
「してない」
「してるよ」
「してねーって」
そう言いながらも、キルアの声には少しも悪びれたところがなかった。
むしろ、本気で何が問題なのかわかっていないみたいだった。
そのとき、ちょうど台所の入り口からレオリオが顔を出した。
「朝から何やってんだ、お前ら」
気の抜けた声と一緒に現れたレオリオは、包丁を持ったキルアと、少しむくれているナマエを見比べて、すぐに状況を察したらしい。
呆れたように眉を上げる。
「……また止めたのか?」
「またって何」
「いや、まただろ。どう見ても」
レオリオは肩をすくめながら台所へ入ってくる。
その後ろから、ゴンもひょこっと顔を覗かせた。
「何してるの?」
「キルアが、また何もさせてくれないの」
ナマエがそう言うと、ゴンはきょとんとしたあと、すぐに納得したように笑った。
「あー、やっぱり」
「やっぱりって何だよ」
キルアが眉をひそめる。
ゴンは悪気のない顔のまま、まっすぐ言った。
「だってキルア、ナマエのことずっと見てるもん」
一瞬、台所の空気が止まった。
ナマエは思わず目を瞬く。
レオリオは吹き出しそうになるのを堪えきれず、片手で口元を押さえる。
「ははっ、言うなあゴン」
「見てねーし」
「見てるって」
「見てない」
「いや見てるだろ」
レオリオが即座に重ねる。
キルアは露骨に嫌そうな顔をした。
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