33
白く乾いた砂浜も、ゆるやかに揺れる水面も、さっきと何も変わっていないはずなのに、ナマエだけがそこから少し取り残されたみたいだった。
波は変わらず寄せては返している。
鳥の声も、風の匂いも、陽のあたたかさも、何ひとつ失われていない。
それなのに、隣にあるはずの気配が見えないというだけで、景色の輪郭が少し遠のく。
どうして、こんな。
自分でも理由がわからないまま、ナマエは岩陰を見つめた。
その向こうから、ふいに見慣れた銀髪がのぞくんじゃないかと、そんなことばかり待ってしまう。
呼べばいいのかもしれない、と一瞬だけ思う。
けれど、呼ぶほどのことじゃない気もした。
少し姿が見えなくなっただけで名前を呼ぶなんて、まるでひとりで不安になっているみたいで、なんとなくためらわれた。
不安。
その言葉を心の中でなぞって、ナマエは少しだけ戸惑う。
ほんの少し視界から消えただけで、胸の奥が冷えるなんて。
そんなふうに思う自分が、信じられなかった。
けれど、身体のほうは正直だった。
息を吸うたび、胸の奥に薄く冷たいものが入り込んでくるみたいで、うまく呼吸が落ち着かない。
指先には、まださっきの硝子片の感触が残っている。
それを握ったまま、ナマエはただ岩場のほうを見つめていた。
すると、少しして。
岩場の陰から、ひょいとキルアが顔を出した。
しゃがみ込んだ姿勢のまま、こちらを見つける。
その表情はどこか楽しそうで、年相応の無邪気さが少しだけ滲んでいた。
海辺の静けさの中で、その顔だけが妙に生き生きとして見える。
「カニ、いるぜ!」
弾んだ声が、静かな波音の上を軽く跳ねた。
その瞬間、ナマエは自分でも驚くくらいはっきりと息をついた。
胸の奥をざわつかせていたものが、姿を見ただけでふっとほどけていく。
さっきまで妙に広く感じていた海辺が、ちゃんと元の景色に戻っていくみたいだった。
波の音も、風の匂いも、陽のあたたかさも、急にまた近くなる。
何も変わっていなかったはずなのに。
キルアの姿が見えた途端、世界の輪郭だけが元に戻る。
キルアはそんなことには気づいていないのか、岩のそばを指さした。
「ほら、あそこ。ちっちゃいの動いてる」
少し身を乗り出すその様子に、隠れるつもりも、心配させるつもりも、たぶん最初からなかったのだとわかる。
ただ岩場の陰に何かを見つけて、夢中になって、それをナマエにも見せたくなっただけなのだろう。
ナマエはすぐには返事ができなかった。
ただ、そこにいる姿を見ているだけで、泣きそうなくらいほっとしてしまっていたから。
そんな自分に気づいて、少しだけ戸惑う。
こんなことで安心するなんて、思っていなかった。
ほんの少し見えなくなっただけだ。
どこかへ行ってしまったわけでもないし、戻ってこないはずもない。
それなのに、姿が見えなくなった途端、胸の奥があんなふうに冷えるなんて。
自分は、いつからこんなふうになったのだろう。
キルアが隣にいることに、慣れすぎてしまったのかもしれない。
隣にいるはずの気配が見えなくなるだけで、静かな景色の中にひとり置かれたみたいな気持ちになる。
そして、姿を見つけるだけで、こんなにも呼吸が楽になる。
それは少しだけ恥ずかしかった。
思っていたよりずっと、自分がキルアの存在に安心を預けてしまっているみたいで。
けれど、嫌ではなかった。
むしろ、その安堵に包まれていく感覚は、ひどくやさしかった。
ナマエは小さく息を整えてから、ようやく岩場のほうへ歩き出す。
足元を覗き込んでいる彼の近くまで行くと、不思議なくらい呼吸が静かになる。
さっきまで胸の奥に残っていた薄い冷たさは、もうどこにもなかった。
「……いた?」
そう聞くと、キルアはちらりとナマエを見上げた。
「いた。すげー小さいやつ。今、岩の下入ったけど」
ナマエはキルアの視線の先を追って、岩の隙間を覗き込む。
「もう隠れた?」
「たぶんな。さっきまでいたのに」
少し残念そうに言いながらも、キルアの声はどこか楽しげだった。
その横顔を見ていると、さっきまで自分の中にあったざわめきが嘘みたいに思える。
けれど、嘘ではなかった。
たしかにあの一瞬、ナマエの胸は冷えて、静かな海辺はひどく広く見えたのだ。
ナマエは岩陰に目を向けるふりをしながら、そっと自分の指先を握る。
どうしてこんなに安心するんだろう。
その答えは、まだわからない。
わからないけれど、キルアの姿が見えるだけで、こんなにも呼吸が楽になるのだと、ナマエはもう知ってしまっていた。
波の音が、またやわらかく耳に戻ってくる。
風が髪を揺らし、陽射しが岩肌を白く照らしていた。
静かな海辺は何も変わらないまま、ただそこにある。
その中で、キルアがすぐ隣にいる。
それだけで、さっきまで少し遠のいていた世界が、ちゃんと手の届く場所に戻ってきた気がした。
ナマエは小さく目を伏せる。
その感情に、まだ名前はつけられない。
けれど、姿が見えるだけでほどけていくこの安堵だけは、どうしようもなく本物だった。
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