36
ナマエは棚の前に立って、そっと背伸びをした。
高いところに置かれた収納籠の中に、畳んだ布巾が入っているのが見える。
ほんの少し手を伸ばせば届きそうで、届かない。
もう少しだけ、と指先に力を込めて身体を伸ばした。
微妙なバランスのまま、足元がわずかに揺れる。
運動神経がいいわけでもない。
ほんの少し体勢を崩しただけで、頼りなく軸がぶれた。
それでも、これくらいなら大丈夫だと思った。
思った、次の瞬間だった。
「それ、やめとけ」
すぐ後ろから声がして、同時に腰のあたりへ手が回る。
ぐらついた身体が、その腕に支えられて止まった。
ナマエは小さく息を呑んだ。
驚いて振り返ると、すぐ近くにキルアの顔がある。
思っていたよりずっと近い距離に、一瞬だけ心臓が跳ねた。
「……びっくりした」
「びっくりした、じゃない」
キルアは眉を寄せたまま、ナマエの体勢がちゃんと戻るまで腕を離さなかった。
その手つきは乱暴じゃない。
けれど、迷いもなかった。
「落ちそうだった」
「落ちてないよ」
「落ちる前に止めた」
言い返されて、ナマエは口をつぐむ。
たしかに、ほんの少し足元が揺れた。
自分でもわかっていたから、強くは反論できない。
キルアはそのまま片手を伸ばして、ナマエが取ろうとしていた籠をあっさり棚から下ろした。
何でもないみたいに軽く持ち上げて、ナマエの前に差し出す。
「ほら」
「……ありがとう」
受け取りながら、ナマエは少しだけ視線を伏せた。
まただ、と思う。
こういうことが増えた。
何かしようとすると、キルアのほうが先に気づく。
危ないと判断したら、迷いなく止める。
そのたびに、思っている以上に自分は不安定なのだと突きつけられる気がして、少しだけ情けなくなる。
けれど同時に、止めてもらえたことにほっとしている自分もいた。
もしあのまま無理に手を伸ばしていたら、本当に落としていたかもしれない。
あるいは、自分がよろけていたかもしれない。
そう思うと、キルアの腕に支えられた瞬間の安心が、じわりと胸の奥に残っていた。
キルアはそんなナマエの顔を見て、まだ少し不機嫌そうに言う。
「だから、そういうのはオレ呼べって」
「これくらい、自分でできるかなって思って」
「思うな」
即答だった。
ナマエは思わず顔を上げる。
キルアは本気で言っているらしく、少しも冗談めかしたところがない。
「ひどい」
「ひどくない。危ない」
「でも、何でもかんでも頼るのも……」
そこまで言って、言葉が少しだけ弱くなる。
頼ることに、まだ慣れない。
守られることに安心してしまう自分を、どこかで少しだけ後ろめたく思っている。
そんなナマエの迷いを見透かしたみたいに、キルアは短く息をついた。
「頼れよ」
ぶっきらぼうな声だった。
けれど、その一言には迷いがなかった。
面倒くさそうにしているのを装うみたいに、キルアは頭を掻く。
「無理して変なことされるほうが面倒」
「面倒って……」
「そうだろ。危ないってわかってるなら、最初から呼べばいい」
正論だった。
正論すぎて、返す言葉が見つからない。
ナマエは籠を抱えたまま、少しだけ指先に力を込める。
胸の奥が、くすぐったいみたいに落ち着かなかった。
キルアの言うことは、たぶん正しい。
少なくとも今の自分よりは、ずっと正しい判断をする。
何が危なくて、何がまだ無理で、どこまでなら大丈夫なのか。
自分では曖昧なことも、キルアは迷いなく決める。
それが悔しいわけじゃない。
むしろ、安心する。
その本音を口にするのは、少しだけ恥ずかしかった。
けれど、黙っているほうがもっと落ち着かなくて、ナマエは視線を逸らしたまま小さく言った。
「……うん」
キルアがわずかに眉を動かす。
ナマエは籠の縁を見つめたまま、続ける。
「キルアがそう言うなら、そうする」
「……」
「わたし、まだよくわかんないから」
言いながら、自分でも頬が少し熱くなるのがわかった。
こんなことを言うのは、なんだか子どもみたいで、少しだけ気恥ずかしい。
それでも、これはちゃんと本音だった。
ナマエはほんの少しだけためらってから、さらに小さな声で言葉を足す。
「キルアが決めてくれると……安心する」
その瞬間、空気が止まった気がした。
キルアが何も言わない。
不思議に思ってそっと顔を上げると、キルアはひどく静かな顔でナマエを見ていた。
怒っているわけではない。
呆れているわけでもない。
ただ、何かを言いかけて言えなくなったみたいな、そんな顔だった。
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