39
ナマエは息を呑み、後ずさろうとして足をもつれさせた。
喉の奥から、掠れた音が漏れる。
「や……」
人影が一歩近づく。
それだけで、全身がびくりと震えた。
「やだ……来ないで……」
自分でも誰に向けて言っているのかわからなかった。
ただ怖かった。
近づかれることも、触れられることも、何もかもが怖い。
「もう、痛いことしないで……っ」
目の前の相手が誰なのか、わからない。
暗がりの中で輪郭だけが揺れて見える。
知っているはずの気配なのに、恐怖に塗りつぶされて、うまく結びつかない。
一瞬、空気が止まった。
その沈黙の向こうで、人影がぴたりと足を止める。
それから、今度はさっきよりずっと低く、静かな声が落ちた。
「……大丈夫。近づかない」
その声に、ナマエの肩がわずかに震える。
聞いたことのある声だった。
何度も聞いてきた、ぶっきらぼうで、でもどこかやさしい声。
けれどまだ、恐怖の膜が厚すぎて、すぐには現実に戻れない。
外でまた雷が鳴る。
ナマエはびくりと身を縮め、耳を塞ぎかけて、うまくできずに指先を握りしめた。
「ナマエ、見て」
その声は、今度ははっきりと届いた。
「オレだよ」
短い言葉だった。
けれど、その一言が暗闇の中に細い糸みたいに差し込んでくる。
オレだよ。
その言い方。
その声の高さ。
名前を呼ぶときの間合い。
ぐちゃぐちゃに乱れた意識の中で、少しずつ輪郭が戻ってくる。
目の前の人影が、ただの“誰か”じゃなくなっていく。
「……キル、ア……?」
掠れた声で、ようやくその名前がこぼれた。
すると人影――キルアが、ほんの少しだけ息を吐く気配がした。
安堵したみたいに。
けれど、すぐには近づかない。
距離を保ったまま、静かに言う。
「うん。オレ」
その返事を聞いた瞬間、張りつめていたものが一気に切れた。
ナマエの喉から、押し殺しきれなかった息が震えて漏れる。
怖かった。
怖くて、苦しくて、わからなくなって。
でも今やっと、目の前にいるのがキルアだとわかった。
そう認識した途端、足元から力が抜けそうになる。
「キルア……」
今度はさっきよりもはっきり、その名前を呼ぶ。
呼んだ瞬間、どうしようもなく縋りたくなった。
キルアはその声を待っていたみたいに、今度こそゆっくり近づいてくる。
急がない。
怖がらせないように、ひとつひとつ確かめるみたいな足取りだった。
ナマエは震える手を伸ばした。
自分でも気づかないうちに、助けを求めるみたいに。
その手に、キルアの指先がそっと触れる。
冷えきっていた自分の手とは違う、たしかな体温だった。
それだけで、また喉の奥が詰まりそうになる。
「……っ」
うまく言葉にならないまま、ナマエはその手を掴んだ。
離したくなくて、縋るみたいに強く握る。
次の瞬間には、もう自分からキルアのほうへ身体を寄せていた。
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