囲いと呼ぶにはやわらかい・前
ビスケがその話を聞いたのは、朝の稽古のあとだった。
庭先の木陰で水を飲んでいたナマエが、少しためらうように指先を組み合わせてから、小さな声で言ったのだ。
「……あの、わたしも、少しだけ護身術を覚えたいの」
その言葉に、ビスケは目を細めた。
隣でタオルを肩にかけていたキルアも、ぴくりと眉を動かす。
「へえ。どういう風の吹き回し?」
からかうでもなく聞くと、ナマエは少しだけ視線を伏せた。
「怖くなった時……何もできないの、いやだなって思って」
「……」
「キルアに助けてもらえるのは、すごく安心する。でも、いつもそうとは限らないし……。せめて、迷惑かけないくらいにはなりたくて」
その言い方が、いかにもナマエらしかった。
強くなりたい、ではない。
誰かを倒したい、でもない。
ただ、迷惑をかけたくない。
その慎ましさに、ビスケは一瞬だけ息をつく。
一方で、キルアは露骨に嫌そうな顔をした。
「……別に、そんなの覚えなくていいだろ」
「でも」
「オレがいればいいじゃん」
「キルアがいない時もあるかもしれないでしょ」
その返しに、キルアが黙る。
ビスケはその横顔をちらりと見る。
「一生ねーよ」みたいな顔をしていて、思わずため息が漏れる。
「いいじゃない。やる気があるなら教えてあげれば」
「は?」
「アンタが」
「なんでオレが」
「一番気にしてるの、アンタでしょ」
キルアはあからさまに顔をしかめた。
けれどナマエが不安そうに見上げると、舌打ちまじりに視線を逸らす。
「……適当にやって、無理だって分からせるだけだからな」
「キルア」
「期待すんなよ。護身術って言っても、簡単じゃねーし」
ぶっきらぼうにそう言うくせに、断りはしない。
ビスケは内心で肩をすくめた。
ほんと、分かりやすい子だこと。
◇
その日の午後、庭の端で簡単な稽古が始まった。
「いいか、まず掴まれた時は、力で振りほどこうとすんな」
キルアはナマエの手首を軽く取って見せる。
「相手の親指のとこ、ここが一番弱い。手首をひねって、こっちに抜く」
言いながら、自分でやれば簡単だった。
無駄がなく、速くて、正確。
ナマエは真剣な顔で頷いて、同じようにやろうとする。
けれど、うまくいかない。
ひねる角度が甘い。
力を入れる場所がずれる。
そもそも身体の軸がふらついて、抜く前に自分のほうがよろける。
「あっ……」
「違う。そっちじゃなくて、もっと――いや、だから先に足を」
「ご、ごめん」
「謝んなくていいから、ちゃんと見ろって」
もう一度。
それでも、できない。
キルアは最初こそ面倒くさそうだったが、途中から明らかに様子が変わった。
苛立っているというより、戸惑っている。
まるで、自分の想定していた“できなさ”と違うものを見せられているみたいに。
「……ちょっと貸せ」
今度は後ろから位置を直すように、ナマエの肘と手首に触れる。
「こう。力入れるのはこっちじゃなくて、こっち」
「う、うん」
「で、足は開きすぎんな。転ぶから」
言葉はきついのに、触れ方は妙に慎重だった。
壊れものでも扱うみたいに。
ナマエは何度もやり直す。
けれど、やっぱりうまくいかない。
手首を抜くどころか、少し強く引かれただけで身体がぐらつく。
踏ん張ろうとしても、足が耐えきれない。
最後には小さく息を切らして、額に汗まで滲ませていた。
「……ちょ、ちょっと待って」
「は?」
「ごめん、思ったように……力、入らない……」
その瞬間、キルアの顔つきが変わった。
ビスケは見逃さなかった。
あれは苛立ちじゃない。
ショックだ。
たぶんこの子、今まで分かってるつもりで、全然分かってなかったのね。
ナマエが非力なのは知っていたはずだ。
守らなきゃいけないと思うくらいには。
でも“知識として知っている”のと、“自分の手で確かめてしまう”のはまるで違う。
キルアはナマエの手首を見た。
自分の指が少し回るだけで、簡単に包めてしまう細さ。
少し体勢を崩せば、そのまま倒れてしまいそうな軽さ。
「……お前」
掠れた声が落ちる。
「こんなんで、今まで……」
最後まで言わなかった。
言えなかったのだろう。
ナマエは自分が何をそんなに衝撃として受け止められているのか分からないまま、困ったように笑った。
「護身術ってやっぱり、難しいね」
「難しいとか、そういう話じゃ……」
そこでキルアは口をつぐんだ。
言葉の続きが、たぶん自分でも怖かったのだ。
ビスケは腕を組んだまま、黙って二人を見る。
ナマエはできないことに少し落ち込んでいる。
キルアはそれ以上に、できなさの中身に打ちのめされている。
守りたいと思っていた相手が、思っていた以上に脆い。
その事実は、優しさだけじゃ済まない感情を簡単に呼び起こす。
守らなきゃ、ではなく。
離せない、のほうへ。
キルアは一度、ぎゅっと目を伏せた。
それからナマエの手を離し、ぶっきらぼうに言う。
「……今日はもういい」
「え」
「無理しても意味ねーし」
ナマエは少ししょんぼりした顔をしたが、逆らわずに頷いた。
その素直さが、今のキルアには余計にきついだろうと、ビスケは思う。
案の定、キルアはそのあとしばらく、妙に黙り込んでいた。
視線だけが何度もナマエへ向かう。
まるで、見てしまったものをまだ受け止めきれていないみたいに。
ほんと、重症ね。
ビスケは心の中でそう呟きながら、けれど口には出さなかった。
この先この子が何をするか、だいたい予想がついたからだ。
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