囲いと呼ぶにはやわらかい・後



案の定、その日の夕方には答え合わせみたいなことをしていた。

庭の隅で、キルアがゴンの手首を掴んでいる。
何をしてるのかと思えば、昼間ナマエに教えていたのと同じ動きだった。

「こうやって掴まれたら、親指のとこ狙って抜く」
「え、こう?」
「そう。で、足はこっち」

次の瞬間、ゴンはあっさり抜いた。
迷いもなく、身体の軸もぶれない。
力任せじゃないぶん、余計にきれいだった。

キルアの顔が、露骨に曇る。

「……もう一回」
「いいけど」
「今の、たまたまだろ」
「えー?」

もう一度。
今度もゴンは普通にできた。
三度目も、四度目も同じだった。

ゴンは途中から首を傾げはじめる。

「これ、そんな難しい?」
「……」
「キルア?」

返事をしないキルアの横顔を見て、ビスケは思わずため息をついた。
ほんとにやると思ったわ、この子。

比べたかったのだ。
ナマエがどれくらいできないのか。
自分が大げさに受け止めているだけじゃないのか。
確かめたかった。
そして、当たり前みたいにできる相手を前にして、余計に突きつけられたのだろう。
ナマエの脆さが、思い込みでも気のせいでもなく、本当にそこにあるものだと。

「アンタ、何やってんのよ」

ビスケが声をかけると、キルアは露骨に顔をしかめた。

「別に」
「別に、でゴン使って検証してたわけ?」
「……うるせーな」
「うるさいのはアンタのほうよ。そんな顔して」

ゴンは事情がよく分からないまま、きょとんとしている。
その無邪気さが今はちょうどよかった。
余計なところまで踏み込まない子だ。

キルアは舌打ちして視線を逸らした。
けれど、その目の奥にあるものをビスケは見逃さない。
ショック。
苛立ち。
それから、怯え。

守りたい相手が、自分の思っていた以上に脆い。
その事実に打たれているだけじゃない。
そんな相手を知ってしまった自分が、もう簡単には引き返せないところまで来ていることにも、気づいてしまっている顔だった。

「……アンタさ」
ビスケは少しだけ声を落とす。

「守りたいのと、手放せないの、もうごっちゃになってるでしょ」

キルアの肩がぴくりと揺れた。
図星。
ほんと分かりやすい。

「うるさい」
「否定しないのね」
「……」

その沈黙だけで十分だった。



翌日から、護身術の指導はビスケが引き受けることになった。
というより、キルアには無理だと判断したのだ。

教えるたびに顔色を変えられては、ナマエのほうが萎縮する。
それにキルアは、できるようにしたいのか、できないままでいてほしいのか、自分でも整理できていない。
そんな状態でまともな指導なんてできるわけがない。

「アタシがやるわ」

そう言った時、キルアはむっとした顔をした。

「……別に、オレでも」
「無理よ」
「は?」
「アンタ、いちいち顔に出すもの。あの子がちょっとふらつくだけで、今にも抱き上げて庇いそうな顔してるじゃない」
「してねーし」
「してるわよ」

そのやり取りのすぐ横で、ナマエはおろおろしていた。
ほんと、罪な子。

稽古が始まると、案の定キルアは黙って見ていられなかった。

「違う、そっちじゃなくて足から――」
「キルア、黙ってなさい」
「でも今のだと転ぶ」
「だからそれをアタシが言うの」
「いや、でも」
「うるさい!」

ぴしゃりと怒鳴ると、キルアは不満そうに口をつぐむ。
けれど数分後にはまた口を出す。

「力入れすぎ。手首痛める」
「アンタは黙って見てなさいって言ってるでしょ!」
「だって危な――」
「危なくないように見てるのはアタシよ!」

ナマエは「ご、ごめんなさい」と縮こまり、ゴンは少し離れたところで苦笑いしていた。
まったく、誰の稽古だと思ってるのかしら。

それでも、ビスケは途中から少しだけ見方を変えた。
キルアの口出しは、ただ過保護なだけじゃない。
ナマエの身体がどこで崩れるか、どこで痛めるか、どこまでなら耐えられるかを、異様なほど細かく見ている。
見てしまっている。
たぶん本人の意思とは関係なく。

ナマエが一歩踏み出すたび、キルアの視線が追う。
手首の角度。
足の置き方。
重心の揺れ。
少しでも危なげな瞬間があると、身体が先に動きそうになるのを必死で堪えている。

ほんと、末期ね。

でも同時に、ビスケは思った。
この子はただ囲いたいだけじゃない。
本気で、ナマエが少しでも自分を守れるようになってほしいとも思っている。
ただ、その願いの隣に、できるようになってほしくない自分もいる。
自分がいなくても平気になってしまう未来を、どこかで恐れている。

厄介。
でも、だからこそ本物だ。

稽古の終わり、ナマエはへとへとになりながらも、少しだけ嬉しそうに笑った。

「さっきより、ちょっとだけできた気がする」
「ええ。ほんのちょっとね」
「ビスケ、ありがとう」
「どういたしまして」

そのやり取りを聞きながら、キルアは少しだけ複雑そうな顔をしていた。
安心したような、寂しいような、誇らしいような。
まるで、自分の手の中だけに置いておきたいものが、ほんの少しだけ外の世界へ足を伸ばしたのを見た時みたいな顔だった。

ナマエはそんなことに気づかず、振り返ってキルアに笑いかける。

「キルア、見てた?」
「……見てた」
「ちょっとだけできた」
「……ああ」

その返事は短かった。
でも、目だけは逸らさなかった。

ビスケは二人を見比べて、心の中で小さく息をつく。

ナマエは、キルアを安心できる場所だと思っている。
怖い夜に戻るための声で、体温で、足音で。
そしてキルアは、そんなふうに頼られることに救われながら、同時に深く縛られている。

たぶんこの先、キルアは何度も迷うだろう。
守ることと、囲うことの違いに。
支えることと、依存させることの境目に。
ナマエが一歩外へ出ようとするたび、笑って送り出したい自分と、引き止めたい自分の間で揺れるはずだ。

けれど、それでもたぶん、この子のことは簡単には壊さない。
壊したいわけじゃないから。
むしろ壊れることを、誰より恐れているから。

厄介で、未熟で、どうしようもなく重たい。
でも、その重さの芯にあるのは、たしかに愛情だった。

「……ま、せいぜい間違えないことね」

誰にも聞こえないくらい小さく、ビスケはそう呟いた。







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