崖の向こうは明るい・前



その日、ナマエが目を輝かせたのは、本当に些細な会話からだった。

朝食のあと、ゴンが昨日見つけた崖の向こうの細い獣道の話をしていた。
島の奥へ続く道で、途中に小さな滝があって、その先には見晴らしのいい岩場があるらしい。
話しながら身振りまでつけるゴンは楽しそうで、キルアも珍しく少しだけ乗っていた。

「でさ、あそこ曲がった先、木の根っこがすげー入り組んでて」
「昨日暗くなる前に戻ったけど、たぶんまだ先あるよな」
「うん。今日もう一回行こうと思ってる」
「オレも行く」

そのやり取りを、ナマエは少し離れた椅子に座って聞いていた。
最初はただ楽しそうに笑っていただけだったのに、だんだんその目がきらきらしてくる。
嫌な予感がしたのは、たぶんキルアだけじゃなかっただろう。

「……いいなあ」

ぽつりと落ちた声に、キルアがぴくりと眉を動かす。
ナマエは二人を見て、それから少しだけためらうように続けた。

「わたしも、行ってみたい」

数秒、沈黙が落ちた。

ゴンは「えっ、ほんと?」と素直に目を丸くし、キルアは露骨に嫌そうな顔をした。
その反応の差があまりにも分かりやすくて、ナマエは少しだけ肩をすくめる。

「……だめ?」
「だめっていうか」

キルアはこめかみを押さえた。

「探検だぞ。散歩じゃねーんだけど」
「うん、分かってる」
「分かってねーだろ。足場悪いし、坂もあるし、たぶん途中で転ぶ」
「転ばないように気をつける」
「そういう問題じゃなくて」

言いながら、キルアの頭の中にはすでに最悪の想定がいくつも浮かんでいた。
木の根に足を取られる。ぬかるみで滑る。虫に驚く。少し急な斜面で立ち止まる。疲れて足が動かなくなる。
そのたびに手を引いて、支えて、たぶん最後は抱える羽目になる。

要するに、半分どころかほとんど介護だ。
そんなの、行く前から分かりきっている。

「ナマエ、あのな」
「でも、行ってみたいの」

遮るように言って、ナマエは少しだけ唇を引き結んだ。

「ゴンとキルアが楽しそうに話してるの聞いてたら、見てみたくなった。くじら島のこと、もっと知りたいし……二人が見てる景色、わたしも見てみたい」

その言い方が、ずるいとキルアは思った。
ただのわがままじゃない。
ちゃんと自分の足で近づきたいと思っている顔だった。

ゴンはそんな空気もあまり気にせず、ぱっと笑う。

「いいじゃん! ゆっくり行けば大丈夫だよ」
「お前は黙ってろ」
「えー、なんで?」
「なんででも」

キルアは即座に切り捨てたが、ゴンはけろっとしている。
ナマエはそんな二人を見て、少しだけ不安そうにキルアを見上げた。

「……やっぱり、迷惑?」

その一言に、キルアは言葉を詰まらせた。

迷惑。
そう言われると弱い。
ナマエはいつだって、自分の願いを押し通すより先に、迷惑じゃないかを気にする。
だからこそ、たまに出てくる「行きたい」は軽く扱えない。

キルアは小さく舌打ちして、視線を逸らした。

「……迷惑とかじゃねーよ」
「じゃあ」
「ただ、絶対大変だって言ってんの」
「それでも行きたい」
「……はああ」

深いため息が落ちる。
止めたい。
でも、止めたくない。
ナマエが自分から何かをやりたいと言うのは、たぶんすごく大事なことだ。
それを危ないからの一言で閉じ込めるのは、違う気がした。

違うと分かっている。
分かっているから、余計に厄介だった。

「途中で無理ってなったら、すぐ戻るからな」
「うん」
「危ないと思ったら勝手に止める」
「うん」
「オレの言うことちゃんと聞けよ」
「聞く」

返事が早すぎて、キルアは眉をひそめた。
けれどナマエはもう、ぱっと顔を明るくしている。
その笑顔を見た瞬間、結局キルアはそれ以上何も言えなくなった。

「やった!」

嬉しそうにそう言って、ナマエは立ち上がる。
その勢いで椅子の脚に足を引っかけかけて、ぐらりと身体が揺れた。

「うわっ」
「……ほらな!」

キルアが即座に腕を掴んで支える。
転ぶほどでもなかったのに、反射で身体が動いていた。
ナマエは目を丸くしてから、少しだけ気まずそうに笑う。

「ご、ごめん」
「先が思いやられる……」
「でも今のはセーフだよね?」
「アウトに決まってんだろ」

呆れた声で言いながらも、掴んだ腕はすぐには離さなかった。
その細さに、また嫌な想像がよぎる。
こんなので山道なんて、本気で大丈夫なわけがない。

それでもナマエは楽しそうだった。
不安より期待が勝っている顔で、支えられたままキルアを見上げる。

「キルア、よろしくお願いします」
「……何その言い方」
「だって、たぶんいっぱい助けてもらうから」
「最初から分かってんなら行くなよ」
「でも行きたい」

即答だった。そのまっすぐさに、キルアは一瞬だけ黙る。それから、諦めたみたいに小さく息を吐いた。

「……ほんと、お前さ」
「うん」
「絶対オレから離れんなよ」
「うん」

素直に頷くナマエの頭を、キルアは軽く小突いた。
ゴンはそのやり取りを見て、にこにこと笑っている。

「なんか楽しみになってきた!」
「オレは全然」
「えー、でもキルアもちょっと嬉しそう」
「は?」
「だってナマエ、すごい楽しそうだし」
「……うるさい」

否定しながらも、完全には否定しきれなかった。

たしかに面倒だ。絶対に大変だ。
たぶん予定どおりには進まない。
半分はナマエの歩幅に合わせて、半分は転ばないよう見張って、残り半分は疲れた時のために気を張ることになる。

それでも。
自分たちの見ている景色を見たいと、ナマエが言った。
そのことが、胸のどこかを少しだけ満たしているのを、キルアは認めざるをえなかった。







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