崖の向こうは明るい・中
出発してそんなに経たないうちに、キルアの予感はだいたい全部当たった。
最初のゆるい坂道で、ナマエの足取りはもう怪しかった。
平地なら問題なく歩けても、少し土が柔らかくなるだけで踏み込みが不安定になる。
木の根が浮いた場所では、どこに足を置けばいいのか迷って立ち止まる。
そのたびにキルアが先に振り返って、手を差し出す羽目になった。
「ほら」
「……うん」
「そこ、右じゃなくて左」
「こっち?」
「そう。で、次はその石踏むな。滑る」
「わ、ほんとだ……」
言われたとおりに慎重に足を運びながら、ナマエはそれでもどこか楽しそうだった。
息は少し上がっているのに、目だけはきらきらしている。
「すごいね、こういう道」
「すごいっていうか、歩きにくいだけだろ」
「位置、なんか探検って感じする」
「してるからな」
ぶっきらぼうに返しながら、キルアはまたナマエの手首を支える。
段差を越えるたび、ぬかるみを避けるたび、ほとんど付きっきりだった。
ゴンは少し先を軽やかに進みながら、ときどき振り返って笑う。
「こっち、滝見えるよ!」
「ちょ、ちょっと待って……!」
「待てるわけねーだろ、あいつは」
「ゴン、元気だね……」
「比べんな。あれ基準にしたら終わりだろ」
そう言った直後、ナマエの足が木の根に引っかかった。
ぐらりと身体が傾くより早く、キルアが腰を支える。
「だから言ったろ、足元見ろって」
「ご、ごめん……」
「謝んなくていいから、ちゃんと掴まれ」
「うん」
素直に頷いて、ナマエはキルアの腕にそっと指をかける。
その頼り方があまりにも自然で、キルアは一瞬だけ言葉を失った。結局、何も言わずにそのまま歩幅を落とす。
半分介護だ。いや、もうほとんど介護かもしれない。
段差では手を貸し、狭い道では肩を抱き寄せ、少し急な斜面では後ろから支える。
水辺の石場に出た時なんて、ナマエが一歩踏み出すたびにキルアの神経が削られた。
「待って、そこ乗るな」
「え?」
「その石、ぐらついてる」
「わ、ほんとだ……」
「……お前、よくそれで来たいとか言えたな」
「だって、来てみたかったんだもん」
少し拗ねたみたいに言い返されて、キルアは眉をひそめる。
けれどナマエはすぐにまた周囲へ目を向けた。
木漏れ日が揺れる。水の音が近づく。鳥の声がして、風が葉を鳴らす。
そのひとつひとつにナマエは足を止めて、まるで初めて世界を見るみたいな顔をした。
「キルア、見て。あそこ、光がきれい」
「……ん」
「水、すごく冷たそう」
「触るなよ。滑るから」
「まだ何もしてないのに」
「しそうな顔してる」
そう返すと、ナマエはくすっと笑った。
その笑い声が、森の静けさの中でやけにやわらかく響く。
キルアは小さく息を吐いた。
面倒なのは本当だ。気を抜けないし、思った以上に神経を使う。
でも、こんなふうに楽しそうにされると、全部無駄じゃなかったと思ってしまう。
滝のそばに着いた時、ナマエは本当に目を丸くした。
「わあ……!」
高くはない。けれど岩肌を伝って落ちる水は陽の光を受けて白くきらめいていた。
周囲の空気はひんやりしていて、近づくだけで肌が少し冷える。
ゴンはさっそく近くの岩へ飛び乗って、「こっちからのほうがよく見えるよ!」と手を振った。
ナマエも一歩踏み出しかけて、すぐに止まる。
岩場は足元が悪い。自分でも分かったのだろう。少しだけ残念そうにその場で立ち尽くす。
その横顔を見て、キルアは無言で手を差し出した。
「……行くなら、ちゃんと掴まれ」
「いいの?」
「落ちたら面倒だから」
「ふふ、ありがとう」
その“ありがとう”が嬉しそうすぎて、キルアはまた少しだけ顔をしかめた。
結局、ナマエの手を引いて、滑りやすい岩場をゆっくり進む。
一歩ごとに位置を教えて、危ないところでは腰を支えて、最後はほとんど抱き寄せるみたいな形で立たせた。
「見えるか?」
「うん……すごい」
すぐ隣で、ナマエが息を呑む。
その声を聞いた瞬間、キルアの胸の奥にじんわりとしたものが広がった。
自分が見せたかった景色を、ナマエがちゃんと見ている。
それだけで、妙に満たされる。
「来てよかった」
ぽつりと落ちたその言葉に、キルアは視線を横へ向けた。
ナマエは滝を見つめたまま、少しだけ頬を赤くして笑っている。
「キルアとゴンが見てるもの、ちょっとだけ一緒に見られた気がする」
「……ちょっとどころじゃねーだろ。だいぶ手かかってんだけど」
「う、ごめん」
「別に謝れって意味じゃねーし」
言いながら、キルアは自分でも分かっていた。
手がかかる。本当にかかる。
でも、その手間ごと嫌じゃない。
むしろ、自分が支えたぶんだけナマエが嬉しそうにしているのを見ると、胸のどこかが静かに満たされていく。
それが健全なのかどうかは、あまり考えないようにした。
滝を離れて少し開けた場所まで来ると、ゴンが木陰を見つけて座り込んだ。
「ここでちょっと休も!」
「さんせい……」
ナマエはほとんどその場にへたりこむみたいに座った。
「つ、疲れた……」
「だから言ったろ」
「でも楽しい……」
「どっちだよ」
「両方」
即答されて、キルアは思わず小さく笑った。
本当に、こういうところだ。
へとへとになっているくせに、楽しい気持ちのほうをちゃんと持っている。
ナマエは水筒を両手で持ちながら、少し弾んだ声で周りを見回した。
「葉っぱの匂いがする」
「森だからな」
「風も気持ちいい」
「それはまあ、分かる」
「あと、キルアがずっと手貸してくれる」
「……それ今言う?」
「だって、うれしいから」
まっすぐそう言われて、キルアは返事に詰まる。
ゴンはそんな二人を見て、にこにこと笑っていた。
「なんかいいね」
「何が」
「ナマエ、すごい楽しそう」
「……そりゃ、まあ」
「キルアもなんだかんだ楽しそうだし」
「楽しそうじゃなくて、疲れてんの」
「でも怒ってないよね」
「……」
図星だった。
疲れてはいる。神経も使う。
でも、不思議と嫌じゃない。
ナマエが自分の差し出す手を疑いなく取って、支えられながら嬉しそうに笑うたび、胸の奥に静かな満足が積もっていく。
たぶん、こういうのがいちばんまずい。
そう思いながらも、キルアはその感情を振り払えなかった。
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