崖の向こうは明るい・後
帰り道に入った頃には、ナマエの疲れはもう隠しきれなくなっていた。
行きより口数が少ない。
足を上げるたび、ほんの少し遅れる。
段差の前で立ち止まる時間も長くなって、キルアが手を差し出すより先に、自分から袖を掴んでくるようになっていた。
「……大丈夫か」
「だいじょうぶ……」
「全然大丈夫そうに聞こえねーけど」
「ちょっと、足が……」
「ちょっとじゃないだろ」
そう言った直後、ナマエの身体がふらりと傾いた。
キルアがすぐ肩を支える。
転ぶほどではなかったが、もう限界が近いのは明らかだった。
ゴンもさすがに気づいたのか、少し前を歩いていた足を止めて振り返る。
「休む?」
「……休んでもたぶん同じだろ」
キルアはナマエの顔を覗き込んだ。
頬が少し赤い。目元もとろんとしていて、疲れがそのまま出ている。
「お前、眠いのもあるだろ」
「……ちょっとだけ」
「ちょっとでそんな顔になるかよ」
ナマエは反論しようとしたのか、少しだけ唇を動かした。けれど言葉になる前に、小さくあくびが漏れる。
その無防備さに、キルアは眉を寄せたまま息をついた。
「もういい」
「え?」
「歩くな」
「でも」
「でもじゃない」
言い切るのとほとんど同時に、キルアはナマエの身体を抱き上げた。
「わ……!」
突然視界が高くなって、ナマエが目を丸くする。けれど驚いたのは一瞬だけだった。
すぐにキルアの首元へ腕が回って、軽い重みが預けられる。
「き、キルア……」
「黙ってろ。落ちるぞ」
「でも、自分で歩ける……」
「今ふらついてたやつが何言ってんだよ」
「う……」
言い返せなくなって、ナマエはしゅんと肩をすくめた。そのまま少しだけ気まずそうに視線を伏せる。
「……ごめん」
「謝んな」
「でも、やっぱり介護みたいになっちゃった」
「最初からそうなるって分かってた」
「ひどい」
「事実だろ」
ぶっきらぼうに返しながらも、抱く腕は思った以上にやさしかった。
ナマエが揺れないように、足場の悪いところでは自然と歩幅を調整する。木の根を越える時は少しだけ腕に力を入れて、頭がぶつからないよう位置まで気にしていた。
ナマエは最初こそ恥ずかしそうにしていたが、しばらくすると抵抗をやめた。
疲れが勝ったのだろう。
キルアの胸元に頬を寄せて、目を細める。
「……あったかい」
「そりゃどうも」
「なんか、安心する」
「またそれ言う」
「だってほんとだもん」
掠れた声でそう言って、ナマエはキルアの服を指先でつまんだ。
その仕草が、不安をキルアで解消しようとする姿と同じで、キルアの胸の奥が妙にざわつく。
ゴンは少し前を歩きながら、ちらりと振り返って笑った。
「ナマエ、もう寝そう」
「寝るなよ。こんなとこで」
「えー、でもキルアが抱っこしてるなら平気じゃない?」
「適当言うなゴン。平気とかそういう問題じゃねーし」
「ふふ……」
ナマエは小さく笑った。けれどその笑い声も、もう半分眠りに沈みかけている。
まぶたが重たそうに落ちて、首元へ預ける力が少しずつ深くなる。
「……キルア」
「ん」
「たのしかった……」
「……そ」
「また、行きたい」
「次はもっと楽なとこにしろ」
「うん……」
返事はしたものの、最後のほうはほとんど息みたいな声だった。そのままナマエの身体から、ふっと力が抜ける。
「おい」
呼んでも返事はない。
規則正しい呼吸だけが、胸元にかすかに触れる。
どうやら本当に寝たらしい。
キルアは少しだけ目を細めた。
呆れるような、でもどこか甘い顔だった。
「……こんなとこで寝るか、普通」
「キルアがいるからじゃない?」
ゴンがあっさり言う。
「安心してるんだよ、きっと」
「……」
「だって、すごいぐっすりだし」
その言葉に、キルアは返事をしなかった。
代わりに、腕の中の重みを抱え直す。
軽い。驚くほど軽いのに、胸の奥へ落ちてくる感覚は妙に重かった。
しばらくは、土を踏む足音だけが続いた。
夕方の光が木々の隙間から差し込んで、眠るナマエの髪をやわらかく照らしている。
その横顔を見下ろしてから、ゴンがぽつりと言った。
「キルア、やさしいね」
「は?」
「だって、ずっとナマエのこと見てた」
「見てねーと危なっかしいからだろ」
「うん。でも、それだけじゃないでしょ」
キルアは眉をひそめる。
ゴンの声はいつも通りだった。深読みして責めるような響きはない。ただ見たままを言っているだけだ。
「ナマエ、今日すごく楽しそうだった」
「……そうだな」
「キルアも、なんだかんだ嬉しそうだったし」
「お前、さっきからそればっかだな」
「だってほんとだもん」
ゴンは笑う。
その無邪気さに、キルアは小さく息を吐いた。
「……面倒だったよ」
「うん」
「ほとんど付きっきりだったし」
「うん」
「転ぶし、ふらつくし、放っとけねーし」
「うん」
「でも……」
そこで言葉が止まる。
ゴンは急かさず、ただ隣を歩いた。
キルアは腕の中のナマエを見下ろす。
自分に抱かれたまま、何の警戒もなく眠っている。
その無防備さが、どうしようもなく胸にくる。
「……あいつが楽しそうなら、それでいいって思った」
低く落ちた声は、思ったより素直だった。
「オレらが見てるもん見て、あんなふうに笑うなら……連れてきてよかった」
ゴンは少しだけ目を丸くして、それから嬉しそうに笑った。
「うん。オレもそう思う」
「でも、こういうの慣れたら困る」
「何が?」
「……オレが」
ぽつりと零れたその言葉に、ゴンは首を傾げる。
キルアはそれ以上うまく説明しなかった。説明できるほど整理もできていない。
手がかかる。守らなきゃいけない。目が離せない。
そのくせ、頼られるたびに胸の奥が満たされる。
今日一日だけでも、それを何度も思い知らされた。
ゴンは少し考えてから、静かに言った。
「でもナマエ、キルアがいるから行けたんだと思う」
「……」
「ひとりじゃ無理でも、キルアと一緒だから見られた景色ってあるでしょ」
「それは……」
「それって、悪いことじゃないんじゃない?」
まっすぐな言葉だった。
単純で、だからこそ少しだけ痛い。
悪いことじゃない。たぶん、それ自体は。
問題は、そのことに救われる自分が、どこまで行ってしまうかだ。
キルアは答えず、ただ前を向いた。
木々の向こうに、くじら島の見慣れた夕暮れが少しずつ近づいてくる。
腕の中では、ナマエが小さく寝息を立てていた。
そのぬくもりを確かめるみたいに、キルアはほんの少しだけ抱く力を強める。
「……重くねーのに、重い」
「え?」
「なんでもねーよ」
ゴンはまた首を傾げたが、追及はしなかった。
ただ、眠るナマエと、それを抱くキルアを見て、どこかやわらかい顔で笑っていた。
帰り道の空は、もう夕焼けに染まりはじめている。
その下でキルアは最後までナマエを下ろさなかった。
疲れて眠ってしまったその身体を抱えたまま、ゆっくりと島の家へ戻っていく。
腕の中のぬくもりは、ひどく静かで、ひどく甘い。
そしてその甘さが、自分をどこまで変えていくのかを、キルアはまだうまく見ないふりをしていた。
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