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 纏めた荷物を車に乗せ、わたしたちも乗り込めば準備は完了。この街を出てカイロに向かうらしい。最終目的地まで近いとなれば、かなりの緊張感に襲われて来る。車はまだ発進していないのに車酔いを引き起こしている気分だ。胃の辺りを一度ぐっと押さえてから、深呼吸をして目を閉じる。酔う前に寝ることにしよう。次に目を開けるときは、ヘリコプターが空から降りてくるときだろう。
 数十分か、はたまた数時間か。ふと目をさまし、しばらくの間ぼうっとしている。車が止まる頃には意識もはっきりとし、周りの皆と一緒に車から降りた。上からはバラバラというヘリコプター特有の音が聞こえてくる。こんな間近で聞くのは初めてだ。さすがに耳の奥まで響く音だ。見上げればヘリコプターの腹が見え、あの中にイギーが乗っているのかなあ、なんてぼんやりと考えた。


「助っ人を連れて来てくれたのだ」

「なんだって!? 助っ人!?」

「ちと性格に問題があってな。今まで連れてくるのに時間がかかった」

「ジョースターさん、あいつがこの旅行に同行するのは不可能です! とても助っ人なんて無理です」

「知ってるのか、アヴドゥル?」

「ああ、よおくな」


 その“助っ人”が“愚者”のカードの暗示をもつスタンド使いであることをジョセフが告げるとポルナレフが調子に乗ったような発言をする。アヴドゥルがそれを戒めると、ポルナレフはアヴドゥルに突っかかった。相変わらずのこどもっぷりである。それを長所と取ればいいのか短所と取ればいいのか……短所かな。
 そんなやりとりを横目に見たあと、着陸したヘリコプターへと視線を向ければ、運転席と助手席から人が降りてきた。皆が二人がスタンド使いであると勘違いしつつも、イギーがようやく登場。ポルナレフが早速餌食となっている。自業自得感がたっぷりすぎて何とも言えない。


「例の大好物をもっているか?」

「持ってなきゃぁ連れてこれませんよ」


 アヴドゥルが運転手から受け取ったコーヒーガムにイギーが今まで以上に俊敏な反応を見せ、アヴドゥルへと一直線に飛び掛かろうとする。運転手が箱の方は! と叫んだが、イギーは箱の方へと跳んでいた。アヴドゥルの左後ろに立っていたわたしは、何も考えずにその箱を先に取り上げてイギーに奪われることを回避。イギーはけたたましく吠えながらわたしのコーヒーガムを握る右手に狙いを定め、がぶり。


「ぎゃ、ナマエちゃん! その手を早く離すんじゃ!」


 見事なまでに噛まれた。これはおれのものだ触ってんじゃねぇよ人間風情が、とばかりの目線に、しっかりと食い込む歯がポイントだ。うーん、まあ、痛いっちゃ痛い。でも案外痛くないのは、加減をしてくれているからかもしれない。すくなくとも皮膚を食い破るようなことはないのだ。十分、手加減されていると感じた。まあ多分、舐められているからなんだけどね!
 さてさて。基本的に動物に噛まれたとき、どうすればいいかということを知っている人は意外に少ない。こういうときにパニックになるとやるのは、引き抜こうとすることだ。やってみればわかるが、これが大変痛い。歯が余計に突き刺さる方向へ引っ張ってしまうので、傷も広がるし、痛いしで何もいいことはないオススメできない行為である。ならばどうすればいいのか? 答えはいたって簡単である。


「えいっ」


 イギーの首根っこを左手でひっつかむと、そのまま右手を押し込んだ。するとイギーはかなりびっくりしたような顔付きになり、わたしの右手を離した。案の定、彼は手加減していたらしく、わかりやすい傷は何もなかったし、当然血も出ていなかった。その間も左手の力は弱めない。ぐっ、と本気で力を込めればイギーはきゃん! とようやく犬らしく鳴いた。


「いけない」


 イギーと目を合わせる。怒るときに目を合わせて怒るとダメだって言う人と、その必要があると言う人がいるけど、それはどちらも威嚇だと思われるということだ。今回の場合は、わたしなら目をそらさない。目を逸らしたら、攻撃する意思がないと、わたしは攻撃しても反撃しない人間だと思われるからだ。舐められていいと自分からアピールすることになる。だからわたしは、イギーから決して目をそらさない。


「味方を噛んだらいけない。わかるね?」


 イギーをたしなめれば、緊張したように固まったままだ。想像に反しイギーはザ・フールを出して威嚇や攻撃をするような真似はせず、不思議なことに何故か随分と大人しくして、──ゆっくりと目をそらした。意外だった。彼から目をそらすとは。
 左手の力を緩め、地面に下ろしてやればイギーは、こちらの顔色を伺うように見上げてくる。右手の箱からコーヒーガムを一枚与えて頭を撫でてやれば、足元でそれをむしゃむしゃと食べ始めた。犬がガムを食べている光景はなかなかに異常であるが、なんだかおもしろ可愛い光景にも見える。というか、犬ってガム食べても平気なのかな? うーん、あげようと思ったことがないから調べた事もないな……。


「………ナマエ、何をしたんだ?」


 ぽかん、と驚いたまま口が塞がりませんとばかりのアヴドゥルやジョセフに問われるが別に何も大したことはしていない。初対面で舐められるような真似は絶対にしない、始めに自分の絶対的優位を見せ付けなければいけない、というのは対動物では基本中の基本ではないだろうか。人間と違い、動物には爪や牙という武器があるのだ。上手く付き合っていくためには、それなりの躾や信頼関係が必要になる。ある種、先人たちの知恵。


「犬には犬のルールがある、そういうことですかね?」


 初手を間違えると犬は人間こと一生舐めてくるからな……。昔飼っていた犬を思い出して、つい苦笑いが浮かんだ。
mae ato

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