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 わたしは自分で車椅子に乗ることは出来ず、尚且つ車椅子がどこにあるかもわからない。 よってここを出る手段は這うだけだ。そんなことをわざわざするほどわたしは外に出たいわけではないので待機するしかなく、ヴィトを呼び出すのもなんだか寂しいやつみたいで、そんな気にはなれなかった。
 することもないので持ってきてもらった朝食をひとり寂しく食べるはめになる。しかも利き手が使えないうえに気が抜けていたため、力加減に失敗。パンにつけるはずのジャムが顔面へと飛び散った。拭くものが近くに置いておらず、わたしにはどうすることもできない。
 とりあえずジャムの殆どのっていないパンを黙々と虚しい気持ちで食べる。べたべたが気になって、食べることに集中することができない。例えばわたしの舌が三十センチあるのならば、ペロリとすべてを舐められただろうに、と大変気持ち悪い絵面を想像してため息を吐いたところでドアの開く音がした。
 ジョセフだろうと顔を上げて、思わず固まった。うわ、顔がいい……。わたしが固まる一方で、入ってきた承太郎はと言えば思いっきり噴き出していた。


「ぶっ……!」


 たぶん、わたしの顔を見て、承太郎は笑いを必死に堪えていたのだろうと思う。お気遣いありがとう。たしかに顔にイチゴジャムが飛び散っているという光景はなかなか見れるものではないだろう。けれど、それにしたって笑うことか? そんなに面白くはなくね?


「……あの、よろしければ、拭くものを取っていただけませんか」


 少し遠い目で承太郎を見てみる。承太郎はどうにか笑いを飲み込むことに成功し、わたしへ部屋にあったティッシュを箱ごと投げてくれた。しかしわたしは勿論利き手が使えない上に反応もうまくできないのでキャッチ出来るわけもなく、ティッシュはジャムまみれの顔へとダイブした。べたべたになってしまった箱と顔を無言で拭きながら、ちゃんと非難の視線を送っておく。承太郎は申し訳なさそうな顔をして、小さな声で、すまん、と謝った。


「いえ……ありがとうございました。それで、何かご用でしょうか」


 わたしも大人だし、彼も悪気はないのだから怒るほどではない。ゴミになったティッシュを丸め、ゴミ箱に向かって投げる。縁に当たったものの、きちんと中に落ちていった。利き手じゃないわりにすごい! ナイスコントロール、自分!
 承太郎は椅子に座って、いつの間にかくわえた煙草に火をつけていた。この時代っぽいよね、たばこを相手の許可なく吸うってのが。喫煙者にまだ市民権があるのだ。現代ではおおよそあり得ない。ぼうっとその姿を見つつ、朝食を再開し、幸いにも承太郎から視線を向けられることはなく、わたしは静かに朝食を終えた。


「お前が呪いのデーボを助けたことについて、考えてみた」


 食事を終えたわたしに、承太郎はポツリと言葉をこぼした。どうやら食事が終わるのを待っていてくれたらしい。そして、想像に反しこちらを見る目は冷たいものではなかった。てっきり誰かしらはわたしの行為を不審に思い、再度敵だと疑われる可能性があると思っていたのに。冷静である承太郎がその最たるだと思っていたからこそ、ちょっぴり驚いた。だけどまあ、感情に振り回されないからこそ、理解できない行動を取ったであろうわたしに、不信感を向けるだけでは終わらせなかったのかもしれない。


「あの時、お前がデーボを助けた時、おれはお前が敵なんじゃねーかと疑った」


 それはそう、あのとき本人であるわたしも普通におかしいことしてたって自覚あるし、支離滅裂だったし、敵とまでは思わなかったとしてもかなり怪しいのだ。すぐに信じてくれてしまう他の人が油断し過ぎなのだから、承太郎が疑うことを気に病む必要はまるでない。こくりと相づちを打つわたしを見て、承太郎の声色がすこし柔らかいものに変わる。


「……だが、冷静になってから考えてみた。あの時、おれがお前の位置に立っていたら、助けられたかはわからんが、それでも助けようとはしたはずだ」

「……」

「人が死にそうになってんのを助けるのは、当たり前のことだった。おれは、敵だとかそんな先入観ばかりが邪魔するようになっちまってたんだ」


 非常事態には、普通のことが普通じゃなくなる。普通じゃないことも、大抵は仕方ないものとして認められるようになってしまうものだ。 なのに非常時に、常識や倫理というものをしっかりと持ち合わせ、他人の意見を尊重することができる。
 すごいなあ、と心の底から思った。この子は、根っからのいい子で、不良だけれど上品で、なんと言えばいいのか。さすが承太郎、わたしなんかとは全然違う。黒歴史があるだけのことはある。


「お前は、優しいやつだった」


 悪かった、と謝罪の言葉。承太郎は何も悪いことなんてしていないし、わたしはされてもいないのに。ああ、困ったな。誰も彼も、わたしを優しいなどと勘違いしてくれて。
 わたしはゆっくりと首を横に振った。何もわかっていない。もちろん、わからせる気があってやっているわけではないので、別に間違ってもいないのだけれど。


「優しいのは、あなたですよ」


 あんな自分勝手な行いを優しいと判断できるのは、優しさを理解しているからだ。自分ならこうすると、優しい思いをしっかり持っているから、承太郎がそういう、優しい人だからだ。
 承太郎の優しい綺麗な心と対比するように、なんだかわたしの汚さが際立って少しだけ、苦しくなった。
mae ato

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