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 騒動を止めるべきかどうかを思考している間に、ナマエは先程投げられたティッシュの箱を、同じようにデーボへと投げ返していた。しかし左手で投げられた箱は頼りなく飛んでいく。デーボの掌が受け止めてバシリと音が鳴ることが不思議なくらい勢いがなかった。ナマエは当然納得がいかないのだろうが、あの勢いのなさから言えばよく飛んだ方だと思う。顔面に当て返せる確率はほとんどないと言っていいだろう。デーボは真顔でナマエを見ていた。


「甘い」

「甘い、じゃないよ! あなた大人、わたし子ども。大人げなーい」

「ナマエも大人だろう」

「アヴドゥルさん、それは言わないお約束ですよ」


 子ども扱いされることをあんなにも嫌がっていたはずのナマエは、都合が悪くなると子どもだと言い張るようだ。……そこらへんは大人だな。そう思うと少し切なくなる。
 ナマエは怪我をしていない左手だけで車椅子を進めようとしたが、どうにもまっすぐにはいかず曲がってしまう。普通、車椅子は乗ったまま片手では動かせない。それは当然のことなのだが、ナマエはついに怪我をしている右手まで使って車椅子を動かそうとした。そんなことをすれば、閉じかけた傷が開いてしまう。


「進みたいときは言いなさい」

「あ、すみませんアヴドゥルさん」


 デーボの横まで車椅子を動かしてやる。車椅子がきちんと止まっているようにロックをかけて、わたしはソファへと落ち着いた。二人を少し遠目から眺めることにする。ナマエは足の上に乗せっぱなしだった椰子の実をずい、と差し出した。


「デーボさん、飲みます?」

「飲みかけを寄越すな」

「え? そのナリで潔癖なんですか?」

「案外に失礼な奴だな、お前……大体、その取って付けたような敬語はなんだ」

「取って付けたなんてデーボさんの方こそ失礼ですよ。デーボさんは年上で、こうして話すのもまだ二回目ですし」

「初対面で自分のものになれと言った人間の台詞じゃねーな。お前、自分に常識がないことに気付いた方がいいぞ」

「嫌だなあ、常識も良識も持ち合わせてますよ。使わないだけで」

「悪質だな」

「悪質ですねぇ」


 まるでお互いが長年連れ添った友人のようにトントン、と話が進んでいくその様がたまらなく不思議だった。その実二人は昨日出会い、尚且つ殺そうとしていた人間と、殺されそうになっていた人間であるのに。……この旅のすべてが、こんな風に解決していけたらいいと、本気で思ってしまう。無理なことだとわかっていても、思わず笑みがこぼれてしまうような、それほど心地のよい穏やかさだった。
 結局、デーボは無理矢理に手渡された椰子の実のジュースを飲んでいた。なんだか少し、シュール絵面だった。飲み下してデーボは微妙な顔をする。どうやら彼の口にはお気に召さなかったらしい。


「……こんな味がするのか」

「おや、デーボさんもはじめてですか、意外」

「殺し屋だからな。来ても観光はしない。怪我も毎回しているしな」

「それは大変ですねえ」

「思ってないだろ、お前」

「やだな、思ってますよ、すこしだけ」

「ムカつくやつだな」

「いえいえそれほどでも」

「誉めてねえぞ」

「勿論ですとも」


 殺し屋、という実にヘヴィな単語を聞いても、ナマエは特にこれと言った反応は示さず、一切気にしていない、という態度だった。リアリティに欠けるからこそ平気なのかとも思う。しかしながらナマエはエボニーデビルに襲われ、デーボが殺したボーイの死体を見ている可能性もある。そんなことが起きて、普通に過ごしてきたはずの二十歳のこどもが何故平気なのだろうか。味方だとは思っているが、この子のことがわからなくなる。
 そんなことをわたしが考えているとは思ってもいないだろう二人は、やはりどこか親しげな態度で話を続けていた。


「それで、どうですか、体調の方は」

「……まあ、大丈夫だ」

「そうですか、よかった。デーボさんはこの先しばらく経過観察入院だそうですね」

「ああ、らしいな」

「わたしたち明日、インドに旅立ちます」


 突然そう言ったナマエを、ゆっくりとデーボが見ていた。先ほどまでの現実感や親しみがどこかへ行ってしまったかのように遠い、無感情な目をしていた。けれどナマエは無邪気に笑う。めいっぱいの笑顔。


「あなたは怪我を治して、わたしのことを待っていてください」


 忠犬のようにね、と冗談を言い放ったナマエは、穏やかな表情できゅっとデーボの手を握る。デーボは馬鹿を言うなと鼻で笑いながらも、されるがまま、決して抵抗はしなかった。
mae ato

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